ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File066】祝・製作四○周年記念特別編発売・・・俺♪穴ぁを掘るッ♪わぁき目も振ぅらずに掘るッ♪・・・前編
生きて虜囚の恥かしめを受けず≠ノ代表される戦陣訓≠ノよって捕虜になる≠ニいう行為を精神的に否定された日本兵と異なり、欧米諸国家においてはジュネーブ条約(日本は捕虜の待遇に関する条項だけ批准してなかった)≠ノ代表されるように捕虜になる∞捕虜を優遇する≠ニいう行為に対しては比較的寛容でした。古来より戦時捕虜に対しては@解放身代金の獲得A奴隷労働力の獲得という二次目的の考え方があった事が大きく影響していると思われます。しかし19世紀以降、大規模な総力戦が繰り返されるようになると、戦時捕虜の数も増大し、捕虜を捕らえた側にとっても、その扱いは重大な問題となります《・・・で、都度ジュネーブ条約は改定され続けます・・・締結1864(10条項)→改定1899(海戦14条項)→1906(陸戦33条項)→1907(海戦28条項)→1929(陸戦39条項)→1949(4条約成立)→1977(2議定書追加・・・日本は批准せず)》
@戦時捕虜への衣食住物資の供給負担
A戦時捕虜の逃亡行為(脱走)を抑止する為の警備戦力負担
B戦時捕虜の逃亡行為(脱走)が発生した場合の捜索戦力の負担
C戦時捕虜の逃亡行為(脱走)が引き起こしす自軍及び民間の混乱
従がって欧米諸国においては、捕虜になった自軍の兵士も、戦略上では敵に対する重要な戦力と考えられていた為、自軍の兵士に対して奮戦空しく捕虜になった場合の対応について
@尋問には姓名・階級・認識番号(生年月日)のみを応え、利敵情報は伝えない
A捕虜収容所において敵警備戦力の注意を退き付け、物資を大いに消費する
B脱走計画立案及び実行によって敵戦力・民間の後方を混乱させる
と指導していました。(まあ捕虜を管理する側も@最低限な物資支給A二線級部隊による収容所警備B敵占領地域から遠距離に捕虜収容所を設置などで対抗した訳ですが・・・。)捕虜を否定しもし捕虜になれば家族にとっても恥≠ニ教え込み、多くの兵士が自ら命を断ったり、特攻、玉砕、斬り込みなど自滅戦法を取らざるをえなかった日本軍とは大きく考え方が異なります。反面、日本兵は一端捕虜になると、一部は自決行為に走った者もいましたが、多くは無気力となり、また連合軍情報部によって氏名を日本に知らせると脅されると自分の知っている情報を簡単に喋った者も多かったそうです。この為多くの日本兵捕虜は偽名を名乗っていました。大陸方面を除き、南方、ハワイ、米本土、豪州など各地に収容された日本兵は@脱走しても周辺住民に紛れ込めないAレジスタンス等地下組織の支援を仰げないB日本勢力地域までの距離が長すぎる・・・。などの理由から、大規模な脱走計画は無かったようです。(日本本土などに収容された連合軍捕虜にも同じ事が言えますが・・・)豪州シドニーから西方約200kmにあったカウラ日本兵捕虜収容所≠ノおいて1944年夏に集団脱走事件(トンネル掘ったりなどという極秘なものではなく、鉄条網を突破する強行脱出)が発生しましたが、この事件は事前に綿密な計画が立てられたというようなものではなく、捕虜間に生じた集団ヒステリーが引き起こした突発事故のように考えられています。
この様に多くの場合、連合国捕虜収容所では捕虜生活を運営する自治委員会と共に脱走委員会≠ェ作られ、実行の如何に関わらず多くの脱走計画が立案されていました。自由を制限された捕虜生活の中で脱走して自由になるという希望≠持たせ毎日を無気力に過ごすのではなく*レ標を持たせ日々を過ごさせ訳です。困難な状況下にあって、計画が立案・実行される・・・まさに現代企業におけるプロジェクトにも通じるものがあります。そして、これらの事実を基にして戦争映画のジャンルにおける数々の脱走もの∞収容所もの≠フ名作が数多く製作されている訳ですが、その最高峰がこの『大脱走』と言えるのではないでしょうか・・・。

【大脱走=″の中の懲りない面々大集合・・・】

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11月12日(火)
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