ID:43818
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by kai
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■東京バレエ団『M』楽日
東京バレエ団『M』@東京文化会館 大ホール

しばしのお別れ、次は5年後か10年後か? 「待ちましょう」、また会えるといいな 東京バレエ団『M』楽日

[image or embed]— kai (@flower-lens.bsky.social) Sep 23, 2025 at 20:02
今回は神奈川公演がないので(今ホールがないもんね…)東京全公演観たかったな……。スケジュール的に無理だったんだけど。てか私、これで改修前の東京文化会館最後になるかも? ベジャール作品観るのは確実に最後だ。寂しい。

あっという間に千秋楽、イチ〜シと少年以外はほぼ初役かな。何度観ても新しい発見がある。振付は勿論のこと、美術、衣裳、音楽、何もかもが見どころあり過ぎる。ベジャールの空間認識力と色彩感覚の凄み、演出家としての凄み。そしてそれを見事に具現化するバレエ団。個々のダンサーの魅力、目を瞠る群舞の美しさ、瞬きする時間も惜しい。

ベジャールの作品は、その独特な振付もそうだが、“余白”の使い方が恐ろしい。ダンサーの肉体を虚飾なく見せるためか。ほぼ裸舞台、音楽も全くない状態でイチ、ニ、サン、シをありったけ踊らせ、直後に長い時間ポーズをとらせる。あれだけ踊ったあとなのでダンサーたちの息は上がり、肩や腹筋がどうしても動く。静まり返った客席からは、堪える息が漏れ聴こえ、汗で光る肌が見える。人間の身体はこうも美しいものか。三島由紀夫が言葉を駆使して描写した肉体の美を、ベジャールとダンサーたちは言葉を一切使わず数秒で表現してしまう。劣情をもよおすどころか、ただただその美しさに見惚れてしまうエロティシズム。実存というものの強さ。「バレエはただバレエであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさわやかであればよい。人間の姿態の最上の美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。」と書いていた三島が観たらさぞや喜ぶだろう、いや、悔しがるだろうか、なんてことも考える。

対する聖セバスチャンのソロはあくまでも軽やか。何しろ美の象徴、しかし踊るのは実存するダンサー。大塚卓の聖セバスチャンは現れただけでハッとするような、場が明るくなるような、光のような聖セバスチャンだった。シと対峙するとき、少年が離れていってしまうときに見せる陰も魅力的で、強くも儚いいのちの輝き(というとミャクミャクになってしまうが)を感じさせる存在感。弓を投げたり受け取ったりする所作も危なげない。

危なげないといえば池本祥真。踊りに関しては安定と信頼の池本さん、なのだが、というのもこの役、踊る以外にもやることがいっぱいあるのだ。衣装の早替えもそうだし、マジックもやらねばならないし、黒板に字も書かねばならない(笑)。だが、ヒヤリとするところが全くなかった。それにしても、本当に池本さんは凄かったな……祖母がもう祖母なのよ。何をいっているのか。いや、初演に比べるととにかく祖母が全然違ったのだ。背中の曲がり具合、ゆっくりとした歩き方、少年に寄り添い遠くを見やる仕草。所作のひとつひとつが死に近い、死を間近に控えた人間のそれだった。そんな祖母が、死の世界に活き活きと生きる“シ”に変身する鮮やかさ。少年を死の世界に迎え入れたあとの歓喜、慈しみ、そしてやっぱりこちらに来てしまったかとでもいうような退屈さ……全てが凝縮されたかのようなあの表情、あの仕草。池本さんのシが観られることは本当に幸せだ。

鹿鳴館パートが興味深い。祖母は勧められたドレスを断るが、楽しそうにダンスをする人々を笑顔で少年に指し示す。その延長線上で少年に銃を渡し、撃たせる。ここでの祖母はおそらく朝子の役割なのだが、西洋文化を拒否する女性たちを、ひとりの男性のバレエダンサーが演じているという矛盾に面白さを感じた。


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09月23日(火)
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