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by kai
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■『美と殺戮のすべて』
『美と殺戮のすべて』@ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター1

やっと行けた〜観られて良かった…『美と殺戮のすべて』、ナン・ゴールディンのオピオイドとの、家族との、マジョリティとの、エイズ禍(そしてコロナ禍にもかかる)との闘いの歴史 pic.twitter.com/oip04Pg2Pg— kai ☁️ (@flower_lens) April 18, 2024
ナン・ゴールディンが、自身の半生を振り返り乍ら、「拡大家族」たちを得て築いたその地位をアクティビストとして活用する。

ドキュメンタリーだが、伝記映画にしてはユニークな作り。ゴールディンが2018年から行なっている「オピオイド危機」に対する抗議活動が縦糸。彼女の生い立ちから写真家となるきっかけ、ドラァグカルチャーとの邂逅、NYのアンダーグランドシーンからデビューし今に至る半生を辿る自身の証言が横糸。

彼女の作品には、いつも極めて私的なきっかけと理由がある。家を出るきっかけ、写真家になるきっかけ、仲間たちとの作品展を開くきっかけ。きっかけには必ずといっていい程喪失がついて回る。そしてそれには、重ねて必ずといっていい程心の病(傷ついた心、といった方がいいかもしれない)と薬物依存がついてくる。「子を育てる覚悟がなかった」両親に抑圧され壊れていった姉、エイズ禍に斃れていく友人たち。ゴールディン自身も、何度も死に直面する。生き延びた彼女は、写真を撮り続ける。

しかし私的な出来事は社会に直結するのだ。オキシコンチン中毒で死にかけた彼女はリハビリを終えたのち(彼女は「治った」と何度もいい、立ち直る過程ではないという)、薬剤の危険性を知り乍ら販売を拡大させた「サックラー家」を自身の活動する場(=アートシーン)から追放する活動に着手する。彼女はその経緯も写真に収めていく。

その様子をローラ・ポイトラス監督は撮る。薬物中毒で家族や友人を失った者たちと集い、抗議行動の作戦を練り(メトロポリタン美術館の「ナイル川」に薬瓶を投げ込み、グッゲンハイム美術館の吹き抜けに処方箋の雨を降らせる!)、州議会でスピーチし、サックラーの名が外された美術館を笑顔で撮影するゴールディンを撮る。そして、ポイトラス監督はゴールディン本人に自身を振り返らせ、語らせる。彼女が「私写真」を撮ることで、自分の人生を、「ファミリー」をどう見つめているか。そしてそうした作品を発表することで、アートシーンひいては社会にどういう影響があったか。常に当事者である、その姿勢が見えてくる。自身が属する「拡大家族」は共同体といってよく、彼女はその共同体を脅かすものに立ち向かう。それがエイズ患者に対する差別であったり、薬物中毒者に対する偏見だったのだ。

興味深かったのは、自分の人生をつまびらかに作品化してきた彼女が、それでもなお「初めて話す」ことが出現したことだ。自分のしたこと、姉の死の真相。その上で、彼女は恥じることではないという。しかし、それにはケアが必要だとも。彼女にはケアが必要だった。ひとりで傷つき、ひとりで死にかけていた彼女に、ケアを施すひとがいた。だから彼女もそのケアを、関わった誰かに届けようとしている。彼女は否定をしない。しかしそれは決して和解ではない。姉を死に追いやったといっていい両親の言葉を聴く。そしてそれらを写真に撮る。彼女は、カメラが自分に「言葉を与えてくれた」と語る。写真を撮ることが自分の「声」になった、と。

当方、80年代の「海の向こうでバッタバッタとアーティストが斃れていく」エイズ禍の経過をリアルタイムで追った世代だ。そして今、オピオイドでバッタバッタと亡くなっていくひとたちのことをやはり海の向こうから知る。2018年から始まった抗議活動がひとつの決着を見る頃、世界はコロナ禍に覆われている。倒産裁判所でのスピーチはZoomを通して行われる。マスクをしたゴールディンは外に出て、仲間たちとハグし、スローガンを叫ぶ。それはもう「海の向こう」のことではなかった。そして今、彼女はガザ救済へ向けて活動している。淡々と彼女は行動を起こす。「海の向こう」は繋がっている。生き延びた者が自分の人生を、自分の属する共同体を守るためには、どんな行動を起こせばいいのか。彼女の姿はそれを問うている。


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04月18日(木)
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