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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『無駄な抵抗』
『無駄な抵抗』@世田谷パブリックシアター
運命に従うことで次のオイディプスが生まれ、抵抗することは誰かを殺すことになる。抵抗は選択でもある。どちらも苦いが、今回の彼女の選択を無駄とは思いたくない。敵だった時代が味方になることもある。“治療”としての演劇が、2500年後にこうして届く。『無駄な抵抗』 pic.twitter.com/YK4RHrGBCy— kai ☁️ (@flower_lens) November 26, 2023
ギリシャ悲劇から、「運命」と「自由意志」を考える。
メインのモチーフは『オイディプス王』。誰が誰にあたるかなあなどと照会しつつ観る。そのうちオイディプスは複数人存在することに気付く。負の連鎖が見えてくる。オイディプスはイオカステになり、テイレシアスはカッサンドラにもなる。カウンセラーは予言を授けるが、大学生には予感があった。伝令は手紙で届き、道化はコロスとして「何もしない」。オイディプスは失意のなかひとりテーバイを去るが、山鳥の旅立ちは、決して絶望の果てではない。彼女は目を閉じはしない。今の彼女には寄り添う人物がおり、彼女もそれを拒絶しない。
舞台の中に劇場があり、客席から客席を見るような美術。古代ギリシャの劇場を思わせる、すり鉢状の階段の底に、半円形の広場がある。世田谷パブリックシアター(SePT)の最寄である田園都市線・三軒茶屋駅の3つ先、用賀駅の入口が思い浮かぶ(同じ沿線だけに)。用賀駅に電車が停まらなくなったら……ギリシャ悲劇がグッと身近になる瞬間。土岐研一の美術はいつも面白い。
運命(予言)に抗い続けた山鳥は、最終的に運命を受け入れる。しかしそれは、自身の人生における最大の抵抗となる。呪いと信じていた予言に向き合い、起死回生の反撃に出る。連鎖を断ち切るために。新たな被害者を生まないために。この「被害者」とは、性暴力の被害者であり、貧困の犠牲者であり、社会から見過ごされている弱者たちでもある。多岐にわたり、夥しい数の「見て見ぬふりをされている」者たちだ。デウス・エクス・マキナが現代に現れる可能性は無きに等しい。人間がなんとかするしかないのだなーと気が滅入る。「告知も説明もなく停まらなくなった電車」は、現代社会のあちこちに存在する。
演じる側からすれば、かなりの難物だったと思われる。『人魂を届けに』での篠井英介のことを思い出す。観る側だけでなく、演じる側も無傷ではいられない。何かしてしまったことに対しての悔やみ、何もしなかったことへの嘆き。誰にでもあるそんな感情と向き合わなければならない。トラウマは臓物のようでもあり、自身に不可欠な器官であり乍ら、それを切り離すと自分が自分でなくなってしまうような恐怖を残す。それでも彼らは、こうして作品をつくり、観客の前に差し出してくれる。
こうして、2500年前(『オイディプス王』に限れば2400年というところか?)の演劇が現代に届く。かつて演劇は“治療”だったというが、演劇は現代に生きる者たちにある種の気づきを与え、セラピーとして機能するのだ。それは観客にだけではなく、演者にとってもそうだったようだ。池谷のぶえの言葉が胸に迫る。
池谷さんと松雪泰子の格好いいこと。カウンセラーとクライアントがバディへと変容していく。クライアントはひたすらアタックを打ち、カウンセラーは片っ端からレシーブしていく。そのやりとりが気持ちよいくらいのテンポとリズム。リズムといえば、安井順平演じる探偵と穂志もえか演じる大学生の、軽妙なやりとりも見事。同様に渡邊圭祐と清水葉月の、ある意味「同志」ともいえる言い争いも聴かせる。盛隆二の客観と落ち着きはその背後にある諦観を感じさせ、いつか彼は電車に飛び込むのではないか、と思わせる不穏を背負っていた。誰にでもある秘密を明るい悲哀としてチラチラと見せてくる森下創、明るい声音に何をやらかすかわからない(そして本当にやらかした!)怖さを潜ませる大窪人衛の存在も頼もしい。そして「何もしない」浜田信也。実在感を消したり出したり、妖精のよう。怖くもあり、この世界を見捨てないでくれ、と祈りたくもなり。
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・前に進むために、無意識に働きかける演劇。「ケア」の視点から文学者・小川公代が読み解く、劇作家・前川知大の世界┃BRUTUS.jp
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11月26日(日)
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