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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『ねじまき鳥クロニクル』
『ねじまき鳥クロニクル』@東京芸術劇場 プレイハウス
待ってた再演『ねじまき鳥クロニクル』、今回はよりバイオレンス(だと感じた)描写に意識が行く。戦争と暴力の傷跡、声と身体の強さ/弱さ、しぶとさ/儚さ、美しさ/醜さ pic.twitter.com/QsaBTD300u― kai ☁ (@flower_lens) November 11, 2023
どんなに痛めつけられてもなかなか死なない身体というものに、感謝するか、うんざりするか(やれやれ?)で感じ方も違う。ちょっと自分でも意地悪な見方をしてしまったと思うが、インバル・ピントは「常に卵の側に立つ」と発言した村上春樹原作の舞台をクリエイトし乍ら、自分の国が置かれている状況をどう思っているのだろうと考えてしまった。それは初演時もそうだろう、とはいうものの、パレスチナ情勢が激化した“今”この作品を上演することに、観る側はやはり何かの意味を見出そうとしてしまう。
父が亡くなり、私が決して知り得ない父の記憶も去っていきました。しかし、父の周りに潜んでいた死者の影は私の記憶に残っています。それは私が彼から受け継いだ数少ない、しかし最も大切なものの一つです。
・村上春樹さん「常に卵の側に立つ」ガザ侵攻したイスラエルで伝えた、たった一つのメッセージ【改めて読みたい】┃HuffPost
イスラエルは、ユダヤ人国家という出自や戦争報道から、排外的なナショナリスト的印象を一部では持たれている。しかし一方で、同国は世界各地にいたユダヤ人のごった煮だ。
固定されたアイデンティティにとらわれない無節操なまでの変幻自在ぶりや、生真面目さに堕することのない泥臭さやユーモアのセンスは、自由なコスモポリタン的感性の反映だ。
・埼玉アーツシアター通信 2007 vol.10
・インバル・ピント紹介┃山形浩生
当時読んで印象に残っていた記事。山形さんのテキストだったな。
とはいえ、待望の再演。初演の感想はこちら。初演からブラッシュアップし、同時に新しく加わったシーンもある。
やはり印象深いのは吹越満演じる間宮中尉が、1938年に満州蒙古国境で体験した出来事を語るパート。初見時よりは短い体感だった。実際に短くなったのか、一度観て知っているシーンだからそう感じたのか判らない。凄惨かつ理不尽な体験を訥々と、かつ流麗に語る台詞術と、アクロバティックにすら映る身体表現を約20分。なおかつ“老人”としての佇まいも見せなければならない。この役を他に演じられる役者、ちょっと思いつかない。初演から数年空いたことでいちばん心配だったのが吹越さんの体力だった。失礼かな? でもあのシーン、とても負担が大きい。そして、その身体的負荷が重要かつ不可欠なので、変更はあり得ない。
いちばん過酷ともいえる身体表現のパートが、登場人物の体験に直結する。井戸の中での出来事を語るとき、頭部を下にして自立する。サポートがいる? と思わず背後を確認してしまう。そこには誰もいない。長い台詞を語るその身体は、全く揺らぐことがなかった。朱に染まっていく彼の顔だけが、その後の“抜け殻の人生”の所以を物語る。
「日本に戻ってきてから、私はずっと脱け殻のように生きておりました。そして脱け殻のようにしていくら長く生きたところで、それは本当に生きたことにはならんのです。脱け殻の心と、脱け殻の肉体が生み出すものは、脱け殻の人生に過ぎません。」
「戦争が終わって随分時間も経ちましたし、記憶というものもそれにつれて自然に変質していくものです。人が老いるのと同じように、記憶や思いもやはり老いていくのです。しかし中には決して老いることのない思いもあります。褪せない記憶もあります。」
原作では二部に渡って語られる告白は、舞台で1シーンに凝縮される。この体験を誰にも話すことなく生きてきた間宮が、近づいてきた死を自覚し、たったひとりだけに打ち明ける。こうした“告白”は、ここ数年現実社会でもよく見られる。被害だけでなく加害も。なかったことにしないために、だろうか。
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11月11日(土)
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