ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『阿修羅のごとく』
『阿修羅のごとく』@シアタートラム
やー面白かった、女優陣と演出はある程度期待通りだったのですが、脚色(原作からどこを抽出し構成するか)と男優陣が見事。「昭和の男」の無自覚さ、現代でも変わらないその本質が浮き彫りになる pic.twitter.com/iqwzfmoBRF— kai ☁️ (@flower_lens) September 17, 2022
昭和の「男」だけではないか、昭和の「女」もだ。女も無自覚に、その不条理を受け入れている。
向田邦子の代表作。テレビドラマ版、映画版ともに観ている。やはり和田勉が演出したドラマ版の印象が強烈で、『阿修羅のごとく』というとまず主題曲となった「Ceddin Deden」が脳内で流れるくらいには刷り込みがある。さて、そのドラマをどう舞台化するか。木野花は、「これがウチの『阿修羅のごとく』だよ!」と宣言するかのような“掴み”を用意する。
客席に囲まれたセンターステージ。太鼓の音とともに、黒子が舞台上に装置を置き、小道具を持ち込んでくる。あ、寄せ太鼓か。てことは相撲だ。この時点で観客にはある種のスイッチングが出来る。以後三味線等の和楽器が使われた音楽が、舞台を彩る。男と女が、女と女が、土俵に見立てられた正方形の舞台で相撲をとる。
とはいうものの、やはりドラマの磁力は大きい。どこをアレンジするのかな等と思い乍ら観る。そのことを承知の上で、舞台は進んでいるようでもある。そうすると、現代の『阿修羅のごとく』が見えてくる。時代設定は昭和のまま。黒電話、公衆電話、女性に対する男性への言動、あるいはその逆……当時は「あたりまえ」であったそれが、強い違和感とともに客席へ届く。こ、こんなに? こんなに男尊女卑だった? と呆れてしまう程。しばらくして、「これは“そういうとこ”を意識的に抽出しているのでは?」と気付く。倉持裕の構成と脚色に唸る。今は“そういうとこ”があたりまえでなくなったことにある種の希望を感じ、しかし男女間のあれこれというものはそうそう変わりはしないなあと絶望もする。
そして、生身の役者が目の前で男女のいざこざを演じるとき、そこにはある種の滑稽さが生まれる。同時に情念というものも直に伝わるので、その重みたるや喩えようがない。水鉄砲のシーン、間違い電話のシーン。「あなたの方は死んでるけど、こっちはまだ生きてるんですよ!」といった台詞。弾けるような笑い、直後の気まずさ。三つの顔を持つ、まさに阿修羅のごとき人間の多面性は、人間関係がもつれればもつれる程生き生きとした光を放つ。
長女の不倫相手と次女の夫を山崎一、三女と四女の恋人を岩井秀人。これがまたいい人選。自身の危機に逃げ回り、妻と妾のどちらにも甘え、揉めに揉める家族の仲を取り持ち、実際献身的に奔走する人物であり乍ら自宅と別宅の区別がつかなくなる程バランス感覚が狂っている男。新人戦にもまだ勝てないのに『あしたのジョー』気取り(あのポーズ!)のボクサーと、恋というよりコミュニケーション全般に不器用な探偵。どちらも悲哀溢れるユーモアをもち、なおかつ色気もまとい、女たちと戯れる。なかでも岩井さんと安藤玉恵のやりとりはどれも秀逸。四女と探偵の、道路を挟んだジェスチャーと火を前にしたダンスには、始まったばかりの恋への祝福とバカバカしさが花束となって贈られているようだった。
それだけに、四姉妹の父に与えられなかった実体(=登場しない)が母には与えられていたこと、ナレーションをモノローグとして扱ったことには唐突さとちぐはぐさを感じた。長編を約二時間の舞台作品にアレンジする際起こるバグのようでもある。ここでふと思い出す、木野さんがかつて『カラマーゾフの兄弟』を舞台化したことを。異なる視点からの演出を施し、三部作として上演すると宣言していたが、第一部サスペンス編、第二部恋愛編ときて頓挫してしまったことを。サスペンス編の幕切れがあまりにもダイナミックな大団円だったことを。そうだった、この方は豪腕な演出を施すひとだった。変わらずでニッコリしました。
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09月17日(土)
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