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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『最後にして最初の人類』
『最後にして最初の人類』[odessa vol+]@ヒューマントラストシネマ渋谷 シアター3
ヨハン・ヨハンソンにお別れを#最後にして最初の人類 pic.twitter.com/t2Xe6bRROB― kai くもり (@flower_lens) August 6, 2021
同じ週にNHKで再放送されていた『映像の世紀』を観ていたこともあり、厭世観が募るばかり。人類が絶滅することは明白だが、では「そのとき」が来る迄、私たちは何をすればよいか。それを考えることは希望でもある。登場する巨大な建造物群は「スポメニック」と呼ばれる旧ユーゴの戦争記念碑。
「あなたたちを助けます。私たちも助けてほしいのです」。
20億年先の未来から“最後の人類”が語りかける。2018年に亡くなったヨハン・ヨハンソンの、最初にして最後の長編監督作は、滅亡へ向かう人類へのメッセージだった。
もともとは映像、ナレーション、オーケストラとエレクトロニクスによるライヴパフォーマンスで発表されていたマルチメディア作品。音楽を改定した映像作品を新たに制作している途中でヨハンソンが急逝したため、スコアの改訂協力を依頼されていたヤイール・エラザール・グロットマンが、ヨハンソンが残した多数の作品を参照し、それらに参加していたヨハンソンゆかりの演奏家たち(ヒドゥル・グドナドッティルも参加している!)を召喚しスコアを完成させたのだという。途中何度も「ああ、ヨハン・ヨハンソンマナー!(参照)」とうれしさで身悶えしたくなるような場面がいくつもあったが、それはグロットマンをはじめとしたヨハンソンの仲間たちによる尽力によるものだ。
原作は1930年に発表されたオラフ・ステープルドンのSF小説。映画では主に、その原作の最終章「人類の最後」をとりあげている。邦訳版は現在絶版となっており入手が困難だが、映画でとりあげられている部分は90年前に書かれたとは思えないくらい、過去、現在、未来を捉えている。第二次世界大戦を前にしてこうも見えていたのか、と驚くが、「大量殺戮兵器」が発明された第一次世界大戦がどれ程人類に驚きと恐怖を与えたかを前述の『映像の世紀』で知ったばかりなので、容易に納得も出来る。16ミリのアナログフィルムで撮影された映像は前述のスポメニック(モノクロ)と、ナレーションと同期したオシロスコープの波形(カラー)のみ。カメラワークも、モノリスを思わせる巨大な立体も『2001年宇宙の旅』が連想されるが、そもそもアーサー・C・クラークがステープルドンから多大な影響を受けているのだそうだ。
人間は登場しない。モノクロのため、建造物に生い茂る雑草も死んでいるかのよう。この星にはもはや生命が存在しないのでは、と諦めと納得の入り交じる気持ちで観ていると、空を鳥の群れが横切っていくのが見え安堵する。オシロスコープの波形は無音のときは球状になる。そのちいさな発光体は遠くの、人類が行き着くことの出来ない星に見える。さて、人類はどこ迄行けるやら。未来からメッセージを伝えるナレーションはティルダ・スウィントン。
18期にわたり姿形、能力さえも変化(進化ともいえるのだろうか)させ、海王星に身を寄せてなお絶滅を待つしかなくなった最後の人類。彼らは原作には登場しないスポメニックを(何しろこれらは1960〜1980年代に建てられたものだ)意識下で目撃し、それが何を意味するものか知る力を持っている。ヨハンソンはこうしてステープルドンの意志を継ぐ、そして次世代に手渡す。ヨハンソンの死後、サウンドトラックとともに映画を完成させたひとたちもその意志を繋いでいく。打ち捨てられたかのようなモニュメントが朽ち果て、「これは何のために建てられたのだろう?」と思われるくらい遠い未来は確実にある。ただ、そう思う人類は果たして存在しているかわからない。“永遠の視座のもとでは全時間点が常に「終わりにして始まり」である”からだ。
なんというメッセージを残してヨハン・ヨハンソンは旅立ってしまったのだろう。置いてけぼりにされたような気持ちだが、まあまたどこかで会えるよね。肉体の命は有限だが、時間は無限にあるのだ。時間(歴史)を意識により共有出来る人類が語る叙事詩は受難の連続だが、彼らはトライをやめることがない。自分たちもそうありたい。
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08月06日(金)
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