ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[647795hit]
■NODA・MAP『フェイクスピア』
NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場 プレイハウス
白石さんのことが気になっていろいろ読んでいたときうっすらネタバレを踏んでしまったのだが、それで作品から受ける衝撃や感銘が変わるかというとそんなことはないのだった。あの言葉が今、こんな風に届くとは。今劇場でこれを観られたことに感謝する。 #フェイクスピア pic.twitter.com/mtjIKMid5a― kai (@flower_lens) June 5, 2021
私が観た日は白石さん、何も問題なかったです。いつもの白石さんだった、よかった。カンパニー皆無事で千秋楽を迎えられますように。しかし何より命が大事。何かが起こったときのリカバリが滞りなく行われますように。
『エッグ』のときは、「事前情報がない方がいいとは思うが、モチーフとなったものごとの背景を肌感覚で知っているひとと、全く知らない(ピンとこない)ひとでは受ける印象が違うのではないか」と思った。しかし今回は、そうした予備知識をものともしない力があった。それだけ引用された「コトバの一群」(とパンフレットで呼ばれている)が強烈なものだからかも知れないが、あのとき受けた緊張感や恐怖感、深く苦しい悲しみは間違いなく劇場で起こったことだった。演劇はその時間、その場限りの現実を作り出すものなのだと改めて思い知った。それを何ヶ月も続けるカンパニーの強さと繊細さに敬意を抱く。
言葉は文字にしろ、音声にしろ、記録されることで記憶を繋ぐことが出来る。それは時間を超え、場所を超えて届けられる。神話、伝説、事故で命を落としたひとびとを悼む。届けられた言葉により、ひとは生きていける。高橋一生の声、白石加代子の声は死者の言葉を生者の肉体を通して甦らせ、橋爪功の声は遺された者の言葉を代弁する。彼らの声なくして、この作品は成り立たないと思わせるだけの強さ。演出に関しては、ブレヒト幕による場面転換の多さを少し煩わしく感じた。扱っているテキストがあまりにも重いため、そういうちょっとしたノイズに過敏になる。
ここから先はネタバレしています。未見の方はご注意を。
-----
『エッグ』のとき、野田さんはパンフの冒頭に「知った気になっている過去」について書いていた。過去はどんどん遠くなる。そうはさせない、忘れてはいけない。ギリシャ神話やシェイクスピアの作品は今でも世界中で読まれ、上演され続け、その言葉が日常生活に紛れ込んでいる。プロメテウスがわからなくてもパンドラの匣は知っている。シェイクスピアに詳しくなくても「ロミオとジュリエット」は知っている。サン=テグジュペリの『星の王子さま』にしてもそうだ。ふとしたことが「知った気になっている過去」を、より深く知ろうとするスイッチとなる。野田さんの作品もそれを目指しているのかもしれない。それは野心というより、使命感のようなものだ。
言葉を疑い続けるという野田さんは、今回「世界一の劇作家」シェイクスピアと、かつての「コトバの一群」を「ダッセ」と嘲笑するフェイクスピアを演じる。かつて「言葉を軽くした」といわれた劇作家は、言葉の印象が時代によって変わること、しかしその言葉の持つ芯は変わらないことを見せてくれる。こんなにストレートな言葉を野田さんが使うことにしたのは、今この世界を覆っている疫禍、それに伴う断絶がきっかけだとは思う。あの「コトバの一群」を引用するのは今で、あのまっすぐな言葉にまっすぐな意味が得られるのも今だと判断した。そんな不謹慎といわれかねないことに手を出せるのは自分だけだという自負もあるだろう。
言葉を残して死んでいったもの。残せず死んでしまったものの思い。アンサンブルによる烏がコトバたちを運んでいく。ブラックボックスはパンドラの匣に見立てられる。そこに残っていたものは「希望」なのだ。
-----
[5]続きを読む
06月05日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る