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by kai
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■彩の国シェイクスピア・シリーズ第37弾『終わりよければすべてよし』
彩の国シェイクスピア・シリーズ第37弾『終わりよければすべてよし』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
大団円(といいつつ『ジョン王』どうするのかなと思っている) pic.twitter.com/Qs7COJV4St― kai (@flower_lens) May 22, 2021
とにかくタイトルがよすぎる、『終わりよければすべてよし』! タイトルありきでシリーズの最後を飾る作品として選ばれたんだろう、とは誰もが思うところでは。しかし「問題作」といわれ、上演の機会があまりないこの作品を観られること自体「シェイクスピア全戯曲上演」の面目躍如、清々しい大団円。以下ネタバレあります。
話自体は「終わりよければすべて……よいか〜?」「そもそも終わりよい、か〜?」というイライラする内容(苦笑)。「不幸せな喜劇」ともいわれるこの作品だが、松岡和子さん(祝・シェイクスピア全作品翻訳完遂!)の訳や吉田鋼太郎さんの演出で「今、この作品を上演するのは/には」のひとつの解釈になっていたのがよかった。この戯曲は女性たちのモノローグが多い。特にヘレンのモノローグの長さは『ロミオとジュリエット』のジュリエットに次ぐものだそうだ。女性たちの賢さ、女性たちの強さ、弱い立場の者たちの結束が描かれる。そこに注目する。そして、そう描いたからこその矛盾を浮かび上がらせる。
元ネタはボッカチオの『デカメロン』だそうで、ざっとあらすじを読んでみたのだが、こちらの方が納得がいく。宗教と法律に縛られて、階級、家柄、性別が道徳、倫理を凌駕するのが『終わり〜』の社会。そして、それは現代でもあまり変わらない。とある役者さんの言葉を思い出す。「人間の営みには、言葉を与えるべきでないものがある。新聞もネットもニュースもみな、悪意のあるなしに関わらず、全てに名前をつけます。それはもう宿命として。演劇とはいま、それに抗う行為そのものだ」。今を生きるヒントは劇場にある。ヘレンたちの連帯を、安易にシスターフッドと名付けたくはない。この物語の女性たちは、それぞれの道でひとりひとり、凛と前を向いている。
そしてこの作品は、ひとを許す、ひとはやりなおせるということも描いている。体現するのはパローレス。とにかく口八丁の減らず口、噓も方便、しかし詰めが甘い。作中イチのイライラ案件だがこれがまあ憎めない。演じた横田栄司さんの力も大きい。彼が捕らえられたときにはやったネ! とニヤニヤしてしまったが、あまりにも軍事機密をベラベラ喋るもんだからちょ、もうやめとき、とハラハラし、何もかも失ったあとのモノローグには心のなかで拍手喝采。で、このいい見せ場で終わったかと思えば彼、その後も出てくるんですよ(笑)。疎まれ乍らもなんだか再びコミュニティに加われそうな余韻にニッコリ。
聡明と勇気を併せ持つ強い女性像を見せてくれた石原さとみさん、あんな男(っていうよねえ・笑)の深層心理を台詞のキレ味で聴かせた藤原竜也さん、前述の愛さずにはいられない“人間”を体現した横田栄司さん。鋼太郎さんと河内大和さんはシェイクスピアのスペシャリストとして物語の骨格をしかと支え、宮本裕子さんの博愛に満ちた未亡人には誰もが敬服。正名僕蔵さんは演じる人物に生き生きとした血肉を与える。正名さん、前回出演したシェイクスピアシリーズ『ヴェローナの二紳士』のときも本物のいぬ(!)にじゃれつかれつつ流麗に台詞を乗りこなしてしていたなあと思い出す。曼珠沙華の鮮やかな色彩は、シリーズ最終作への寿ぎと先代芸術監督への追悼の思いと。秋山光洋さんの美術、唐突とも思えるピンスポに爆発的な説得力、原田保さんの照明。いい座組でした。
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05月22日(土)
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