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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『大地 Social distancing Version』
『大地 Social distancing Version』@PARCO劇場
観られたことに感謝! pic.twitter.com/NNJ5ZcOdjf― kai (@flower_lens) July 5, 2020
2011年3月12日に、PARCO劇場で『国民の映画』を観た。そして今回、コロナ禍により閉鎖されていた劇場が再スタートしたタイミングで最初に観たのも三谷幸喜作品。思えば、劇場が封じられてから最初に観た配信リーディングは『12人の優しい日本人』だった。決して三谷作品の熱心な観客ではないが、歴史に残るといってもいい非常時に直面したとき、何故か彼の作品が傍にある。
以下若干ネタバレあります。
三谷さんによるご挨拶(音声)で幕開け。「(現代演劇の礎である)築地小劇場は銅鑼の音とともに開幕しました、再びこの劇場の幕を銅鑼の音とともに開けたいと思います」。黒子が登場、一瞬の静寂、そして打ち鳴らされる銅鑼からの暗転。流石に涙出た。
映画スター、世界中を旅したパントマイマー、大道芸人、劇団主宰、女方、演劇を学んでいた学生……さまざまな出自を持つ役者たちが「反政府主義者」として捕らえられ、収容所に送られてくる。指導員と取引する。政府役人の目を欺く。役者たちはさまざまな役まわりを演じることで生き延びようとする。人間としての尊厳を踏みにじられるような日々をなんとかやり過ごしていた彼らは、ある日ひとつの選択を迫られる。
“Social distancing Version”とサブタイトルがつき、当初の演出とは違うものになった。正直観ている側も、役者同士の距離が近づく度にヒヤリとする。しかし、その「距離を保つ」という条件を逆手にとった仕掛けが面白い。収容者たちの居室が区切られていること。豚の飼育作業から帰ってきた者には臭くて近寄れないこと。やがて観客は、その条件をある種のスリル(というと語弊があるかもしれないが)とともに楽しめるようになる。
ひとりの若者が大人たちと一定期間過ごし、痛みを伴う喪失や苦い思いを経て成長する。三谷さんの作品ではよく見られるフォーマットだが、その登場人物とともに、観客も成長する(ワタシは若者じゃないがな…いくつになっても学び成長することは出来るのや……)。役者たちは理不尽としかいえない理由で「反政府主義者」というレッテルを貼られる。そして「政治の仕組みが変わって」そのレッテルが剥がされる。何が起こって「仕組み」は変わったのか? それは示されない。作品は煽動しない。答えを明示しない。答えは自分で探すのだ、想像力をフルに使って。「利用するんだよ」という言葉の意味を考える。
劇場の灯が消えても、台本をとりあげられても、役者とロウソク一本の灯があれば芝居は出来る。しかし、そこに観る者がいなかったら? どちらが不在でも成り立たない。この舞台にはそれが描かれていた。三谷さんは今作を「俳優についての物語」といったが、これは同時に「観客についての物語」でもあった。
大泉洋は、演じる側として観客の役目をも果たす。三谷さんいうところも「いわゆるあて書き」、悪いヤツじゃないんだけど、なんとなく疎ましがられる。毒づき、ボヤき、手段を選ばず、それは自分のためでもあり、仲間のためでもある。でもその仲間は、彼のことを仲間を思っていないかもしれない……そんな悲哀も抱えている。たちの悪い『泣いた赤鬼』の青鬼のよう。一人称が「アタシ」なところにもニヤニヤ。与えられる役と自身のギャップに葛藤する映画スター役に山本耕史。腹のなかが見えないところがまた“らしい”。女方という職業故ある役割を負わされる竜星涼の激情、「おじいちゃんの狡猾」をかわいげで表現する浅野和之に唸る。そして相島一之の信念の強さにすら揺さぶりをかける三谷さんの怖さにまた唸る。
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07月05日(日)
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