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by kai
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■『すべての四月のために』
『すべての四月のために』@東京芸術劇場 プレイハウス

立ち見でなんとかすべりこみ。正面側だったし前の席のひとの頭を気にしなくてよく、視界良好だったのでたまには立ち見もよいですね。しかし腰をいわしちまったっぽい…やばい……。

鄭義信の新作。日本統治下の朝鮮半島、その南西に浮かぶちいさな島。太平洋戦争が終わりに近づくなか、日本軍専用となった理髪店を営む朝鮮人一家、そこへ集うひとびとの悲喜こもごも。

この悲喜こもごもの濃いこと、激しいこと。悲劇から喜劇へ、そしてまた悲劇へといった緩急も激しい。鄭さんの作品はいつもそうで、演出も過剰に感じることも多い。しかしやがて、この過剰さはあまりにも悲しくやりきれないことが多いからこそ、それを笑い飛ばすしかないひとびとを描いているからだということが見えてくる。

他愛のないドタバタ、に思える痴話喧嘩や家族のいざこざ。しかしこの積みかさねがあることで、登場人物たちが徐々に白黒つけられない立場に追いやられていることがわかってくる。そんな彼らがどちらに属しようがどうにも出来ない事態に直面したとき、やりきれなさに説得力が増す。夫が自分の姉を思い続けていることを次女は知っている。別れた夫とのコンビで仕事を得る三女は、元夫に悪態をつき乍ら同時に世話もやく。片足のない日本人将校と片足の自由がきかない長女は愛情を育んでいく。そして呑気に呑んだくれていると思われた四女は、家族という枠組みから抹消されることになる。季節から春が消えるかのように。

積みかさねをしらない第三者は狭い島で噂を流し、家族を非難し、村八分の行為におよぶ。しかし観客は、島のひとたちの知らないことを知っている。そういう作劇だ。だから涙する。

傍らには酒と歌がある。日々のくらしのなか、うたい、おどり、なき、わらう。そして「幸福」だと思いつづける。信じる、といった方がいいかもしれない。そうやって彼らは生きてきた。喧騒が大きいからこそ、ときおり訪れる静寂が重い。日本の敗戦はいよいよ現実的なものとなり、それでも朝鮮人たちは弾圧されている。日本名を与えられ、日本語を話し、日本軍のクラブ(社交場、と何度もいいなおされる)で唄い、日本兵として徴兵される。日本人将校は、職を辞する直前に理髪店の家族を分断する決定的な仕事をしなければならなくなる。

ひとは生きていくなかで必ず過ちをおかす。罪は忘れられてはならず、背負い続けていかねばならないが、それでも生きている限りひとはやりなおすことが出来る。鄭さんは必ず、このことも描く。ゆるすという感情とはまた違う、諦めにも似た思いがそこにはある。恋心が生まれる状況と激情は誰にもとめられず、誰にも阻むことが出来ない。失われた命は戻らない。それでも所謂「元サヤ」に収まっていく夫婦や家族。彼らに日々のくらしへの帰り道を用意し、そのために必要な時間を用意し、そして不幸が二度と繰り返されないようにという祈りにも似た思いを描く。

くりかえし詠われる、春、そして全ての季節への「乾杯」の音頭と、終盤ワンシーンだけ登場する、現代の理髪店前で騒ぐ韓国の若者たちが聴いているヒップホップ。思えばあの音頭はラップのようでもあった。音楽劇の要素を交え、うたとおどりで時間を繋ぐ。観客は、静かな笑顔とともに劇場から送り出される。この後味の加減も見事でした。


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11月25日(土)
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