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by kai
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■『たとえば野に咲く花のように』+お菓子の話を少し
鄭義信 三部作 Vol.2『たとえば野に咲く花のように』@新国立劇場 小劇場

『鄭義信 三部作』第二弾。三部作中唯一、鈴木裕美が演出(他の二作は演出も鄭さん)。初演は新国立劇場開場10周年記念フェスティバル公演、『三つの悲劇―ギリシャから』中の一作として上演されたもので、ギリシャ悲劇『アンドロマケ』が下敷きになっています。

舞台は1950年代のF県H港。朝鮮戦争が始まり特需景気にうかれつつも、米軍の指揮下、機雷除去に駆り出される海上保安官たち。後方支援と言いつつも、事実上の前線基地だ。街を出ていく者、待つ者、奪う者、失う者。恋愛と時代に翻弄されるちいさな街のちいさな者たち。野に咲く花、ちいさく強い花。

『パーマ屋スミレ』同様、序盤は博多(九州)弁に耳がついていかず四苦八苦。九州出身の私ですらそうなので、こちらにずっとお住まいの方は相当あたふたするんじゃないでしょうか。しかしじきに慣れ、激しい言い合いをする登場人物たちに「せからしかー!」と怒鳴りたくなってきます(笑)。ホンも演出もエネルギッシュで、登場人物たちはしょっちゅう怒鳴りあいをしている。殴りあいもしばしば。鄭さんが自称する「吉本新喜劇」調、裕美さんが得意とするドタバタ悲喜劇。この過剰を鬱陶しいと思うか、ともに没頭するかで好みは分かれそう。個人的には楽しめました。満喜の弟が逮捕されたと知らせにくる少年が、動転のあまり状況をうまく伝えられない様子をジェスチャーゲームに見立てた演出には笑った。

戦争を起因として祖国をあとにした女性。原案であるギリシャ悲劇と照らし合わせ乍ら観ることも出来る。アンドロマケは満喜、ピュラスは康雄、ヘルミオネはあかね、そしてオレステスは直也。康雄が戦時中の極限状態で行ったことは彼の罪を重くするための後付けに感じ、あかねの常軌を逸した執着は原案の影響を感じる。しかし、満喜とその弟のようなひとたちは、現在でも世界のいたるところに存在する。まるで今回の再演のために加えられたかと錯覚する台詞は、勿論初演からあったものだ。「五十年後にはなくなっている」と言う登場人物の願いが戦後七十年を超えた今でも叶わないことに胸を衝かれる。作品の普遍を思う。普遍は無慈悲でもある。

最後の場面に現れる満喜の姿と、語られない康雄たちの行方。原案ではアンドロマケの行方は曖昧なフェイドアウトで、あとの三人の最期が明示されている。この反転には、希望を見出す余地がある。パンドラの匣に残った希望とは、人間の力ではどうすることも出来ない災厄に抗うための、想像力のことでもある。

登場人物中割を食ってる感もあるあかねの執着に、原因と依存の要素を加えたところに鄭さんの優しさが感じられた。それが明かされる終盤迄はキツかったー。嫉妬に燃え狂う者は周囲を巻き込み消耗させる。恐ろしいし、正直関わりたくない。満喜とあかねが一緒に酒を酌み交わす場面にどれだけ救われたかわからない。ふたりが失ったものの大きさを感じさせるシーンだった。とにかく女性たちが強く、懐が深い。対して男性の「いかれぽんち」なこと! しかしそこに愛嬌や色気が滲み出る。鄭さんの作風でもあるが、にくたらしいわー(笑)。康雄も直也も哀れで格好いい。そんでまたそこに雨とか降らすし! ニクい!

そしてそのどちらにも属さないダンスホールの支配人は、『焼肉ドラゴン』で櫻井章喜が演じた人物にあたると考える。個人的に理想の人物で、こうありたい、と思わせる。超然とすら感じる優しさ。陽気の裏の悲しみを周囲は察知出来ないかもしれない。こうありたいし、そこに気付く者でありたい。康雄と満喜が話している店に入れず(自分の店なのにね)、外にぽつんと座って花びら占いをする支配人の姿はとても愛しかった。


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04月10日(日)
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