ID:43818
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by kai
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■『おとこたち』+蜷川さんのことを少し
ハイバイ『おとこたち』@東京芸術劇場 シアターイースト
初演からそう間をおかずの再演。岩井秀人が常日頃から仰っているように、再演は作品の強度、深度を増すためのものとも言える。観る側も同じ。
今回は演出の細やかさ、役者の巧さにつくづくヤラれた。二十代から八十代迄を口調、姿勢、髪の分け目を少し変えるだけで瞬時に演じ分ける。初演の感想にも書いたが、着こなしの変化(衣裳そのものに大きな変化は与えず、パンツの裾をクロップド丈にする)だけで幼児にもなる。経年変化は、突然腰が曲がったりと言ったような「いかにも」ではなく、ゆるやかに近づいてくる。ちょっとした段差につまづいたり、後ずさりしたときに思わずよろめいてしまったり。それら繊細な要素を、役者たちはさりげなく、丁寧に積み重ねていく。これが非常に効果的。本人の意識は若いままでも、身体はそうではないという表現も絶妙。冒頭の山田のモノローグが象徴的で、導入マジックとしても素晴らしい。そして自分は若いという意識から、結果的に命を落とすことになる鈴木の姿は、老いを受け入れることが難しい現代社会を映し出しているように思う。
そうした時間の経過を的確に表現し、観る側に伝える役者の力があるからこそ、演出も自由度が増す。台詞は初演よりシンプルになり(太郎と初対面の山田が「おまえ…!」という台詞もなくなっていた)観客への「ここから役が変わってますよ、年代が変わってますよ」という目配せが減らされている。これは不親切ではなく、観客の感覚を信用しているということだ。地続きの転換は、観客に一瞬の戸惑いと、続いてそれを理解することが出来る喜びをくれる。演劇の醍醐味でもある。
現実を冷徹に見つめる岩井さんは、同じ視線で現実への寛容も掘り起こす。なだらかな場面転換は人生そのもの。どこで選択を間違った? あのときどうすればよかった? そんなもの、あとになってわかることじゃないか。そのとき、そのときで対処していくしかない。幸せとは言えない最期を迎えた津川が歩く暗闇、その暗闇から見えた光が太郎へと続く道は映画的な場面転換でとても美しい。ともすればスピリチュアルな方向に行ってしまいそうな危うさがあるが、そこは装飾や説明を加えないことでいかようにも解釈出来るようにしてある。この「筆が滑らない」ところも岩井さんのすごみであるように思う。とても好きな場面。
松井周以外は初演からの続投(配役は岩井さんが演じた監督を平原テツが兼任、よって出演者は初演よりひとり少ない)。松井さんは『聖地』で劇作家として知り、役者で観たのは『遭難、』からだったが、まああそのにえにえだらだらした人物造形の素晴らしいこと。岩井さんもだが、青年団周辺の劇作家・演出家はなんでこうも役者としても優れているのかー。演じた森田という役はいろいろ解釈出来る人物で、いちばん人間というものの複雑さが表に出ているように思える。あれも好き、これも好き、のらりくらり、どっちつかず、あわよくば両方、その場しのぎ。それでも妻は彼と別れず、彼は妻の看病を献身的といってもいい様子で続ける。山田を施設に入れる手続きもしてくれる。八十代になった今、何気にいちばんたよりになっているとも言える。若い頃のツケ? 罪滅ぼし? 今更逃げられない? 仕方ない? そんな言葉もちらほら浮かぶ。若い頃遊んだともだちはもう山田しかいない。思い出すのは楽しい昔日。
「追い駆けて 追いかけても つかめない ものばかりさ 愛して 愛しても 近づく程 見えない」、物語の前半と後半でこうも違って聴こえるチャゲ&飛鳥の曲は、これから耳にする度にえぐられるのだろうな。そしてどんどん闇が増していく老いの場面に「(年金)ねばってドン!」とか入れて来るとこも岩井さんすげえと思いました。反射で笑った。苦しむなら、そこにオモシロを何がなんでも見付けよう。その滑稽さこそが人生、泣いて笑って忙しい。そのうち気付けば死後の世界。
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・『悲劇喜劇』最新号(2016.5)
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04月09日(土)
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