ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648277hit]

■『十二夜 ―Twelfth Night』
『十二夜 ―Twelfth Night』@日生劇場

成河くん曰く「ジョン・ケアードが創るシェイクスピアのスーパーオーソドックス」な『十二夜』。思えばこの作品、戯曲を読んだ以外では歌舞伎の『NINAGAWA 十二夜』でしか観ていなかったのでいい機会でした。そしてパンフレットのケアードの言葉によると、「同じ役者にヴァイオラとセバスチャンをやってもらうのは僕にとって初めての経験。歌舞伎と一緒で、シェイクスピア時代のイギリスでも、訓練された男性が女性を演じてきましたが、日本では男性を演じる訓練を受けて来た宝塚がある。ならばそのスキルを活かさない手はないな、と」。十年越しでふたつの演出を観られてとてもよかった。

スーパーオーソドックスであるからこそ物語の芯が見えてくる。同時に時代が反映される。オーシーノが一席ぶつ「女とは」に傷つくヴァイオラや、今見ると現代的とも言える積極的なオリヴィア等、はっとするところも多い。まさに双子、鏡の構造を持つ作品なのです。喜劇なのに悲劇として観ることも出来る。宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ」が脳内でかかりますよ…つらい……。

幕切れ舞台に集うのは、秘密を暴かれ恋に破れ、自分の願いが叶わなかった者たち。なかにはその本心を誰にも(そう、当人にさえ)気付かれないまま恋を終える者もいる。彼らを前にフェステが唄う。登場から浮かない顔で、帽子をとって頭をかきむしっていたフェステ。ひとに見られていないときの彼はいつもそうだった。笑いを必要とするひとの前でだけ、彼は活き活きと跳ね回る。道化と言う仮面の下に憂いと諦めを秘めている。彼は恋に破れた者の心を知っている、諦めなければならないことを突きつけられた者の心が解る。だから彼らに寄り添い歌を唄う。その声は慈愛に満ち、哀切に響く。

喜びと怒り、悲しみと楽しみは一元的なものではなく、時代や受け手のバックボーンにより変化する。光の当て方によって、ガラリと印象が変わるのだ。日時計と言う美術にも象徴されるそれらを逃さず掬い取る演出、多用される言葉遊びを的確に日本語化する翻訳者、言葉の両面を観客に伝える役者の実力。それはもう見事なカンパニーで、シェイクスピアが時代を超えて上演され続けていく謎を、こうやって時代時代に生きる者たちが解き続けられていくのだなと感じ入った次第。

シリアスもコメディもお手のもの、オリヴィア役の中島朋子さんやマルヴォーリオ役の橋本さとしさんの達者っぷりに唸ります。酸いも甘いも噛み分けた人生、ひとことひとことが沁みるサー・トービー役の壤晴彦さん、フェイビアン役の青山達三さん。いいコンビ。軽妙な人物たちに囲まれ、終始生真面目な人物である主人公は大変だと思いますが、音月桂さんはブレないヴァイオラ/セバスチャンでした。ヴァイオラは「男性を演じる女性」、セバスチャンは「男性」。女性であり宝塚出身である音月さんが演じやすかったのはセバスチャンの方ではなかっただろうかと思いますが、彼の出番はそう多くない。衣装の装飾の一部を変えるだけと言う早替えで、メイクも変えずに即その人物だと周知させる演技は見事でした。歌も素敵。そしてアントーニオ役、山口馬木也さんなー! あの物語る目! セバスチャンへの思いはどこ迄のものなのか、解釈の匙加減が非常に複雑な役柄。その複雑さがひしと伝わりました。秘めるって苦しい。ちなみに終演後読んだパンフレットの人物相関図では明記されておりました。

今作を観に行くことにした決め手は成河くんでした。彼が演じたフェステ像については書いたとおり、いやはや本当に舌を巻く。「あいつは誰だ? 何者だ?」と初見から引き込まれる役柄を全うしておりました。今回は人間の役ではあるけど、それでも異人の空気を纏う。舞台上の登場人物たち、そして舞台と客席の架け橋となり、作品世界を文字通り縦横無尽に駆けまわる。観たいものを見せてくれると同時に、予想のつかないくらい遠い世界をも見せてくれる。『成河一人会』でもうどうしよ〜となっていたギター演奏も堂々としたもの。そしてあの歌! 声! 本当に素晴らしかった。


[5]続きを読む

03月14日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る