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by kai
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■National Theatre Live IN JAPAN 2015『欲望という名の電車』
National Theatre Live IN JAPAN 2015『欲望という名の電車』@TOHOシネマズ日本橋 スクリーン4

ロイヤル・ナショナル・シアター上演作品が日本で観られる! しかも『欲望という名の電車』を! と言う訳で行って参りました。平日夜の日本橋は建物に桜の映像がライトアップされていて(桜フェスティバルの一環だそう)華やか。

演出はベネディクト・アンドリュース、ブランチはジリアン・アンダーソン、スタンリーはベン・フォスター、ステラはヴァネッサ・カービー。上演劇場のヤング・ヴィック・シアターは可動式の舞台機構で、今回は円形仕様。中央の舞台をぐるりと囲む形で客席ベンチが据えられている。客席はおよそ八分割されていて、ブロック間に役者も出入りする通路がある。これはもう鈴木勝秀版・青山円形劇場での上演を思い出さずにはいられないところ。そのうえこの舞台、まわるのだ。役者だけでなく、美術も全方位晒される。よって書き割り等の装置は使えず、徹底したリアリズム。そしてその装置や衣裳は現代のもの。2DK程のアパートの一室、調度品も小綺麗で整然としている。ブランチはワンピースとジャケット、サングラス姿でルイ・ヴィトンのバッグをキャリーケースに積んで現れる。

それに反して台詞は当時のまま。ブランチはコードレスフォンで電話を掛けるが、繋がるのはミッチの家ではなく交換手。スタンリーはボウリングに行き、家に仲間を呼んでポーカーに興じ、その間女たちは映画を観に出掛ける。この時代錯誤とも言える初期設定が、戯曲の普遍性と強靭性をより一層浮かび上がらせる。ブランチとスタンリー、ブランチとステラ、ステラとスタンリーが交わす、戦争にも喩えられる激烈な言葉のやり取りは、初演から60年以上経った今でも何もかもが有効なのだ。台詞の耐性にそろそろ期限が近づいているのは、「偉大なるアメリカ合衆国」の国民である誇りくらいなものではないだろうか。

名前はいくらでもつけられる。DV、依存症、虚言癖。しかし、そこには絶対に当事者以外の介入を許さない壁がある。常に外部が意識される。家の外、家族の外、街の外。外部は常に闇だ。闇にはさまざまなものが潜んでいる。ご近所の目(=それは観客の目にもなる)、痴話喧嘩を繰り広げるユーニスとハベル、街の女、行商人。ブランチがスタンリーについて並べ立てる言葉は観客の爆笑を呼ぶ。円形仕様のため、画面には笑う観客の顔も映っている。そしてカメラは、絶妙のタイミングでその話を立ち聞きしているスタンリーの表情をクローズアップする。劇場中継と言うフォーマットでしか観られない入れ子的なマジックは、スクリーンの前の観客に鏡として映る。おまえもスタンリーを笑うのか? と。差別され、嘲笑される“ポーラック”は、妻にさえ豚と呼ばれるのだ。その妻ステラは、タイトルでもある欲望を体現する。吠えるステラはブランチがスタンリーを指して言う“ビースト”そのものだ。人間が持つ多面性が乱反射する。そのどこに焦点を絞るか? この作品は演出により、役者により毎回新しい発見がある。

浴室が「見える」、新聞集金人がコワルスキ家を訪問する直前街の女にからかわれる、あの名台詞(と言ってもこの作品は全編名台詞なのだが)「死の反対は欲望」を盲の花売りに語りかけるブランチ。これらの演出は初めて観た。ブランチとステラの言い争いがこれだけ激しいものも初めて観た。それらを得て強く思ったのは、この作品はステラが初めて家族を葬る話なのだと言うことだ。苦しみ抜いて死んだデュボア家の人々を葬儀のときにだけ訪ね、ベルリーヴを失ったことを事後に知るステラが、初めて家族が死に向かうさまを目撃し、初めて自らの意志で家族を送り出す。家族に引導を渡す痛切さを、これ程激しく感じたのは初めてだった。ヴァネッサ・カービー演じるステラは、喜怒哀楽を強く押し出す、生命力溢れる女性像。それは前述の台詞から解釈すれば、欲望の権化と言うことだ。タイトルロールとも言える見事な演技。


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03月11日(水)
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