ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648532hit]

■『盲導犬 ―澁澤龍彦「犬狼都市」より―』
『盲導犬 ―澁澤龍彦「犬狼都市」より―』@シアターコクーン

思い返してみれば、「劇作家」の原体験は唐作品なのだった。今作でも茶化されていたが「南の島」「九州?」と言われるくらい東京から離れた土地育ちなので、出会いはテレビドラマ。しかしそれは、野田秀樹作品よりも鴻上尚史作品よりも、そして蜷川幸雄作品よりも前の出会いだった。上京した年、日生劇場で『盲導犬』が上演された。しかし悲しいかな貧乏学生、チケットに手が出なかった。演劇ぶっくの裏表紙に載っていた広告を何度もうらめしく眺めていたので、今でもその広告のヴィジュアルが思い出せる…(笑)。その後何度か『盲導犬』は上演されたが、やっぱり蜷川演出で観たかった。変な拘りだと自分でも思うが、24年越しの夢が叶うことになった。

そんな気味の悪い思い入れもあったこの作品でした。観られて幸せ。えーとこっからは初演をリアルタイムで観た、時代の空気を知ってるひとからすると頓珍漢な解釈かも知れないけど、90年代頭からの四半世紀、現代演劇を観た者が感じたことです(こう書くとまだまだ若造だな私も・笑)。沢山興味ある舞台作品を観られた。その何倍もの舞台作品を観られなかった。その偏りが、こういう感想を持つに至った。作品だけから感じたこともだいじだけれど、それを観る迄の自分のなかにちょっとした蓄積があり、その蓄積が全く同じひとと言うのはどこにもいないのです。

蜷川幸雄にとって重要な劇作家は(シェイクスピアはこの際置いておく)、まず清水邦夫。そして唐十郎。同時代の演劇人でもある。評論家や研究家がどう検証しているかは知らないけれど、個人的にはこのふたりの劇作家には共通点を多々感じている。学生運動と言う時代背景、敗れ去り死に行く弱者と若者。『真情あふるる軽薄さ 2001』で蜷川さんと初タッグ、中年男を演じた古田新太はこう叫ぶ。「列を乱すな!」目の前には機動隊に撲殺された青年と女。そして今回の『盲導犬』、古田さんはフーテン青年とともに撲殺される側だ(死んでいないかも知れないが。しかし死んでいないとしたら、あの終幕をどう捉えよう?)。『盲導犬』の「天井からの声」は、『血の婚礼』の「蟹の女」の声を思い出す。『盲導犬』は70年代に発表されたものだから、80年代に書かれた『血の婚礼』よりも前に書かれている。しかし自分が目撃したのは『血の婚礼』が先で、ここには個人の矛盾が介在する。蜷川さん言うところの「千のナイフ、千の目」はこうやって増殖して行く。その時代を知らない者は、当時を象徴するさまざまなキーワードを取りこぼしている。「カナダの夕陽」は初めて聴く曲だ。赤木圭一郎の出演作品を観たことがない。十仁病院は今では高須クリニックくらいカジュアルな印象だろう。

それでも初期衝動は起こる。演劇は目撃、体験、そして心に深く刺さるナイフだ。暗闇にふっと浮かぶマッチの灯火、幻のように現われる女。コインロッカーの鍵穴にひとつ、ふたつと浮かんだマッチの灯りが一斉に輝くとき、非日常が日常をかき消す。あの光景、忘れられない。

当時のヒリヒリした空気と、疾走する者の焦燥を、例え違ったものだとしても追体験出来る。当時を知るひとたちの足元にも及ばないノスタルジーではあれど、彼らよりも若い世代(しかし彼らも今では中堅〜ベテランの域であろう)の演劇人たちの作品をリアルタイムで観てきた観客は連想する。『エッグ』で野田さんの寺山ルーツに気付いたように、今回南河内万歳一座=内藤裕敬のルーツを改めて思い起こした。美しい言葉の濁流、夕陽、喧噪のあとの静寂。四畳半に上がり込んでくる異世界。演劇は残らない、その場にしか存在しない。当時を知ることは出来ない。しかし、こうやって遡ることが出来る。


[5]続きを読む

07月20日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る