ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648147hit]

■『弁護人』『遠野物語・奇ッ怪 其ノ参』
ただ、今はその記録を残すことすら危ぶまれている。単に忘れ去られるだけではない、記録そのものを規制、操作しようとする社会の動きに作家は敏感だ。同じ日に観た『弁護人』のことを思い出す。「なかったこと」にされる記録はどのくらいあるのだろう?

以前前川さんと岩井秀人が対談で「なんでも最悪なことから考える」「家族に電話して出ないと『あ、死んだ』と思う」というようなことを話していた。これは私もそうなのだが、単に過度の心配性なのか(これがエスカレートすると不安神経症と呼ぶのかもしれない)、最悪の予想からスタートしておくとその後の衝撃に多少は耐えられるという自己防衛からくるものなのか、判断しかねてもいる。事例が増えればそれがどちらなのか判るだろうか? サンプルを増やすことで、浮き上がってくるものがある。これは私が前川作品を観る度に考えることであって、前川さん自身がそんな思いで作品を書いているのかはわからないが、ある種の指針は示しているように思う。無念というと重いが、行き場のない悲しみや怒りの受け皿となる作品を前川さんは書いている。

本筋と関係ないことを書くと、川島さんのことを思い出した。何せ岩手だし。山に帰ったんだなあ、と思うことが出来れば。今作の登場人物のひとりのように、近しいひとは折り合いなんてつけられないだろう。何故あのひとが、何故こんな目に? いくら考えても答えは出ない。そこで伝承の出番だ。先人たちの知恵か、それとも実際そうなのか。もういないひとを傍に感じる手段でもあり、悲しみを癒す手段でもある。喪の仕事にもなるだろう。それを知っていると、後々の光にはなる。

それにしても鬼のような八百屋舞台であった。そのうえ同空間を取調室(椅子)と和室(座敷)に見立て、地続きで行き来させる演出なので、座ったり立ったりの動作が繰り返される。全員が複数の人物を演じ、ときには効果音も自分たちで演奏。段取りも多い。演者には相当負担がかかってると思う。が、がんばれ…気をつけて……。

先週『はたらくおとこ』アフタートークでべらべら楽しいおしゃべりをしてくれた山内圭哉、自分の持ち場ではたらいておりました。奇ッ怪と現実、虚構と事実。それらのハブとも言えるいい仕事っぷり。仲村トオル、人を食ったような言動から顔をのぞかせる作家の業、その鋼の意志。絶妙なさじ加減。そして銀粉蝶、「人間は生きてる人間と死んでる人間しかいない」その人間をズバリ体現。演技陣ホント素晴らしかったな、ユーモアをまじえ、しかし誠実に役に寄り添う。そして皆声がいい。ゴリゴリの東北弁からちょっとわかりやすくした(所謂「標準語」をミックスした)方言のスイッチングも絶妙、観客の耳をならしていく過程も巧い。特に瀬戸康史、全然聴きとれない第一声の東北弁から、標準語を交えた東北弁の流れが見事だった。そして声のよさといえば思い出す、岩本幸子。今回そのポジションに池谷のぶえが配されていたが、岩本さんが演劇の世界から去ったことは残念としかいいようがない。池谷さんは勿論素晴らしかった。

そうそう、導入がハイバイみたいに感じられた(笑)こないだのには僧正出てたから尚更ね。観客を奇妙な世界へ滑らかに招待してくれました。人間は生きてる人間と死んでる人間しかいない、そして死んでる人間の方が断然多い。ずっと皆、ここにいる。

11月12日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る