ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『A Number ─数』『Whar If If Only ─もしも もしせめて』
父に堤真一、息子に瀬戸康史。父はずっと言い訳していて、結果的に20人近くいる(うち父と対話するのは3人)息子はそれぞれの人生を父に突きつける、あるいは関与しないまま生きていく。息子たちは殺し合い、あるいは自殺する。「普通」に、幸せに生きている息子も当然いる。何しろ20人近くいるのだから、同じ人生を辿る筈がない。でも「普通」って何? 人間は環境に育てられるのだなあ、と強く感じる作品でもあった。倫理観や宗教観によって大きく意見が分かれそうでもある。しかし、欧米の方がこうしたクローンや臓器移植について寛大という印象がある。『わたしを離さないで』のように、こうした技術が資本化、産業化してしまう恐ろしさもある。生まれたわたしはわたしのもの、の筈なのだが。
堤さんは自分が演じる役について「全く理解出来ない」「共感出来ない」とか素直にいっちゃうひとで、今回もインタヴュー等でハッキリそういっていたのだが、それでいて舞台に立つとその登場人物としか思えないような挙動になるのがすごい。愛と欲の区別が出来ず、エゴのままに生きる。やってしまったことに対しての後悔はあるが、起こっちゃったことは仕方がないと開き直ってもいる人物を気持ち悪く演じていた。
こちらも衣裳が絶妙。堤さん演じる父、絵に描いたような「くたびれたおじさん」具合。ものすご〜く冴えない。部屋着とよそゆきの区別があんまりない。それでいて、本人は変えているつもりだろうということが伝わる見事な塩梅。対して息子はメリハリをつける意図もあるのか、それぞれわかりやすく個性の出るファッション。ラストシーンでは、20人近くの息子たちが映像で登場する。瀬戸さん、仕込みがたいへんだっただろうな(笑)。
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観終わると、二本立てで上演される理由も見えてくる。逆に、単作で上演する機会ってあるのだろうか? 「もし起こったら、起こらなかったら?」「起きたこと、起こってしまったこと」に関するお話だった。冒頭ツイートに書いたとおり、台詞には固有名詞や主語が殆どなく、代名詞でのやりとりに終始する。リズミカルなキャッチボールのような会話。“Whar If If Only”なんて、英語発音だと滑舌の心地よさに酔ってしまいそう。翻訳もリズムを重視したのではないだろうか。演じる方は台詞を入れるのがとてもたいへんそうだ。
一方聴いている方は耳心地のよさに乗ってしまい、その意味を取り逃がそうになる。慎重に聴く。そして、その代名詞に自分たちを当てはめる、今を当てはめる。いつでも、誰にでも起こる、あるいは起こりそうなこと。
美術が素晴らしかった。舞台上にはキューブ型のミラーボックス。ボックスが開く(昇降する)と、登場人物たちが暮らす部屋が現れる。そこで生活する人間の生態──標本を見る思い。転換時のボックスにはさまざまな映像が映し出される。登場人物の過去、思い出、心象風景……果たしてそうだろうか? これらがあのひとたちのものだという確証はどこにもない。鏡に乱反射する照明も美しかった。人間の存在意義を問うような光景。段差のない前方席だったので、全景をひきで観られなかったのが残念。
09月21日(土)
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