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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■はえぎわ×彩の国さいたま芸術劇場 ワークショップから生まれた演劇『マクベス』
椅子はさまざまなものに姿を変える。寝台、玉座、森の木々。グリッドはバミリの役割も果たしているのか、システマティックかつスムーズに配置を変えられる。小道具の見立ても効果的で、ひとりの役者が父子──バンクォーとフリーアンス──の会話をひとりで演じ、絵に描かれているこどもに巻かれていたキツネのえりまき(マフラーよりえりまきといいたい)を父が巻いた瞬間、その父がこどもに変身し死んでいく。魔女を演じていた役者が帽子を被るとマクダフのこどもになり、死んでいく。少人数の演者が複数の役を演じる際の工夫がエモを呼ぶこの鮮やかさ。こういうのに弱いのよ…泣いちゃう。
附け打ち等の歌舞伎的な演出もあり、それを観ているうちにふと思う。シェイクスピア作品、所謂「幕見」が出来るのではないか。「ダンカン暗殺の場」「マルカム説得の場」「大詰 バーナムの森」のように、各々のストーリーと台詞のどこを切っても名場面になるのだ。全体像を知っておく必要はあるが、それでもあらゆる場面に勘所があり、見応えがある。そして勘所をおさえてなお、台詞が長い(笑)。マクダフの妻子が亡くなったことを告げるやりとりがなんでこうもまどろっこしいのよ、辛い知らせなので遠回しにいいたいというのは判るけど、と思ったりもするが、それら修飾語で彩られた名台詞の数々を歌のように聴き、名調子の数々を堪能出来る。「人生は歩く影法師 哀れな役者だ」と大見得を切るマクベスには「待ってました!」と大向こうを飛ばしたくもなる。シェイクスピアが活躍した時代は日本でいうと安土桃山時代、歌舞伎の誕生は江戸時代のはじめとのこと。こんな妄想もありかな。
翻案には通し上演を俯瞰で見る鳥の目と、取捨選択の判断力が必要なのだと気付かせてくれた今回のホンと構成だった。そして冒頭のツイートにも書いたように、台詞を「云える」役者を揃えたことも、今回の上演を心地よく観られたことの要因。時代がかったいいまわしと現代口語を行き来し、血なまぐさい11世紀と現在を繋げる。多くのひとが殺され、こどもも容赦なく無残に殺され、死が見世物になる時代。それは決して過去の話ではないことを知らせてくれる。ラストシーンのマクベスの「首」と、カーテンコール後の魔女たちの「片付け」は、殺戮は今後も繰り返されるということを暗示するようで恐ろしかった。流れる多くの血は水で表される。染み込ませる素材の効果か、透明な筈の水が墨汁のようにどす黒く拡がる。印象的な美術。途中流れた加川良「教訓1」が沁みた。最後の「歓喜の歌」日本語カヴァーはどなたなのかな?
翻訳台詞を現代に聴かせる内田健司のマクベスを観られてうれしかった。囁き声も、張った声も、遠く迄届く。ものいわぬときの逡巡も恍惚も、目の輝きひとつで見せてくれる。長いあいだ観ていきたい役者。コメディエンヌの印象が強かった川上友里は、悪事にも破滅にもまっしぐらの一途なマクベス夫人像。そこにある思いは野心というより、ひたすらマクベスを成り上がらせたい気持ちが先に立つよう。バンクォーとフリーアンスを演じたからくり人形のような山本圭祐、魔女とマクダフの息子を演じた菊池明明の声の力。個人的に贔屓のキャラクター、マクダフを演じた町田水城は、時折脱力するようなユーモアを見せる人物像で魅力的。
紅林美帆による衣裳が美しくかつ機能的。特に茂手木桜子のドレスが素晴らしく、彼女の身体能力をより魅力的に見せてくれるものになっていた。常態はノースリーブ、ドレープの効いたふわりとした漆黒のドレス。魔女が摺り足で歩くとロシアの舞踊「ベリョースカ」のような、引力を感じさせない動きに見える。ふわり、ふわりと風に舞う落ち葉のように舞台上を移動する。四つん這いになり、暗黒舞踏のように足を床面から離さず体幹を裏返す動きをすると(諸星大二郎のヒルコのよう。今回喩えばかりですみませんね……)ドレスの裾がめくれあがる。そこで初めてペチパンツを履いていたことがわかる。転じてマクダフ夫人を演じるときは、シックなデザインが映える。
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03月02日(土)
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