ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[647709hit]

■Q『弱法師』
Q / 市原佐都子『弱法師』@スパイラルホール

シアターコモンズ'24で待ってましたのQ『弱法師』。背後の人間をないものとし、人形の受難に憤り、笑い、涙する……となりそうで、どうにも人間を消し去れない。筈が、やはりときには忘れていて、映像によりクローズアップされた人形遣いの表情に驚く。自分の認知力を問われ続ける90分 pic.twitter.com/INBABspZEb— kai ☁️ (@flower_lens) March 9, 2024
人間も肉体という容器に入ってるだけなんだなあとしみじみしつつ、では、その肉体の中身って何だろう? と延々悶々と考える。なのになんだか清々しい思い。3月とは思えない冷たい強風を浴び乍ら帰る道の、なんて気持ちいいこと。

首を長くして待っていた。ドイツでの世界演劇祭、高知、豊岡公演を経て、ようやく東京初上演。

交通誘導員で夜勤続きの夫。通行人や車から非人道的な扱いを受け、「俺は人形、俺は人形」と自分に言い聞かせ乍ら働いている。家では妻が待っている。こどもを望むふたりは、夫が帰宅する朝、せっせと生殖行為に励む。果たして美しい男の子が生まれる。やがて妻は亡くなり、家には継母がやってくる。虐待を受け、捨てられた子どもはある人物と出会い、その容姿を活かした仕事に就くことになるが……。

さて、この家族。全員文字通りの人形である。夫は所謂「安全太郎」、誘導員の事故死が多発したことを受け開発された人形。妻はラブドール、着脱可能のオナホールを夫に洗ってもらう。子どもはマネキン。そりゃ美しい。「僕ってね・・・・・・、どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」というあの名台詞が当然に聴こえる。上演形態は文楽。従来のそれと違うところは、一体の人形をひとりの人形遣いが全身で操るところ。ときにはひとりの人形遣いが、一度に2〜3人の人形を操る場面もある。引糸の設計も独特で、特に頭部は人形遣いの頭部と人形の頭部が繋がれており、首の動きが同期している。これは相当演者に負担がかかる筈。大崎晃伸、中西星羅、畑中良太の献身に瞠目。

人形遣いの行動が観客の意識から消えないよう、定期的にシグナルが入るような演出が施されている。人形を間に挟んではいるものの、生殖行為の動きは人間同士の営みに映る。終盤の父と息子の再会で、見えない筈の人形遣いの表情が、映像によってクローズアップになる。観客は人形を通して背後の人間を見る。見てしまう。人形にピタリとくっついている夫の顔、妻の顔。しかしその顔すら、人形によっては着脱可能だ。美しい子どもが働くマッサージ店の従業員たちは、皆自分が美しいと思うものを、文字通り「盛る」ことに熱中している。それは「物量的に盛る」ことで、大きな目や胸がかわいいと思えば目玉や乳房をいくつも貼り付けるし、長い腕脚が美しいと思えば、腕や脚を何本も胴体にくっつける。なんならカワイイ+カワイイで乳首を眼球に付け替える。ルッキズムへの批評は、こんな形で顕れる。

心身ともに暴力を受ける交通誘導員。恐らく古くなったが故寿命を迎え(廃棄され)るラブドール。虐待の果てに捨てられるマネキン。弱き小さなものたちは、苦痛を消すために自らを人形だと思い込む。その離人の図式が、そのまま人形に落とし込まれる。心を殺すことが身の安全を図ることだとしたら、人形の心はどこにあるのだろう。対して人間を人間たらしめる根拠は心なのだろうか? 便宜上魂といってもいいだろう。しかし、人形に魂がないと果たしていえるのか。

このように観客は、人間と人形を一体化させ、笑ったり嘆いたりと忙しい。首を吊る誘導員を見て悲しみ、悼もうとする。ところがそこで、劇作家は強烈な台詞をお見舞いする──「文楽気取りかよ!」。人形はいつまでも、いつまでも死ぬことが出来ない。対して人間は死ぬことが出来るのだ……そのことに安堵してしまう。生きるものへのクィアな視点は、こうしてどこまでも追究されていく。


[5]続きを読む

03月09日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る