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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■維新派『トワイライト』(映像)
維新派の作品は通常の劇場とは比較にならない程広い空間を使うので、最前にいる演者の発声と最奥のそれにはディレイが発生しそうに思うのだが、それがないのがずっと不思議だった。今回は映像作品になっているので、ライン録りした音をディレイなく鳴らせる。しかしこれは、実際に現場で聴いてもそうだったのだ。『トワイライト』は今回が初見だが、他の作品でも、いつもそうだった。演技エリアの中間くらいの場所に、左右1台ずつスピーカーらしきものが置いてあるのが見える。それをモニターで使っているのだろうか。

そして演者は全員がマイクを装着していると思っていたが、アップの映像で観るとそうではなかったことが分かる。所謂台詞をいう演者の他に、同じフレーズを謡うグループの、それぞれ数人だけがマイクを着けている。“ケチャ”は芯となるソロイストとコーラス隊に分かれていたということだろうか? それがあのマジカルな響きになるのか……そうすると動きにもディレイが起きそうなのだが、やはりそれは感じられない。ただ、こちらはリズムに合わせてひとりずつ移動していくものが多いので、ズレがあったとしても輪唱のように観ることが出来る。

それにしてもどうやったら客席迄ズレなく届けられるんだ? 仕組みがやっぱり分からない。

アングルが変わるというのも映像ならでは。定点で観る“生の舞台”とは大きく違うところだ。アップが観られる。演者たちの白い衣装に、白塗りの顔に、泥の沁みが少しずつ増えていく。ぬかるみに滑る脚が見える。虫が飛んでいるのが見える。白く覆われた顔に、揺れる表情が見える。ワタルが、ハルが、あんな表情をしているとは。これを現場で目にすることは難しかっただろう。

漂流、移民。常にあるキーワード。ボートピープル、キューバから逃れてきた同性愛者。1980年代からあるモチーフは、上演された2015年でも、その2015年から8年経った今でも有効なのが悲しい。人間に飽きたから鳥になる。それが憧れをもって語られるのが悲しい。そうして旅団は去っていく。

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自宅で配信を観られることはとても便利だし、有難い。しかし、劇場の良さは多くの観客=見知らぬ他者とともにその劇世界を体験出来ることだ。終映後、無言で退場する人々の顔を見る。笑顔のひと、放心したような表情のひと。それぞれの感想、記憶を抱えて帰路につく。私たちは一緒に維新派を観たのだ。

あと天候と気温に左右されないのはいいね、トイレが! とか切羽詰まらないで済む(笑)。まあ雨や寒さも維新派の体験と記憶なのだが。

ロビーでは当時のパンフレットや台本がほぼ半額で販売されていた。在庫セールの意味合いもあったのかも知れないが、今あの台本(!)を実際に見られる機会は少ないので有難い。楽譜というか図面というか……ここ迄システマティックに書かれているなら、再演、出来なくはないかも? と思う。しかし今、この国にそんな余裕があるのかとも考えてしまう。場所探し、セットの建設、演者のレッスンと集団の維持。クリエイションに関わる人々の関係性。長い時間と多額のお金が必要だろう。いつかどこかに、それを実行に移す酔狂なプロデューサーが現れてくれればいいな、なんて思う。

それはかつての維新派と、その観客がひとり残らずこの世を去ってからでもいいのだ。一冊の台本から、誰も観たことのない世界が生まれる。それは現在の演劇も同じだからだ。

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・2015年 トワイライト┃維新派オフィシャルウェブサイト
画像も素晴らしいので観て〜

・トワイライト┃EPAD┃作品データベース
村の歴史や、口承による300年の伝統を持つ舞いを作品に取り入れ、この曽爾村で上演することが重要な作品となりました。
作品全部がこんな風に創られていたので、土地の歴史そのものも作品になっている。「二度と観られない」は「余所で観られない」でもある。
デジタルアーカイブデータは早稲田大学演劇博物館のAVブースで視聴可能です(要予約)

10月22日(日)
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