ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『ロングショット』
演者の台詞が正反対の方向から聴こえることも。演者はマイクを装着していたのだと思うが、そのままの声が直接届くときもある。ささやくような声もしっかり届く。空間の大きさとスピーカー配置の妙。マイクのオン/オフは生/死の区別だろうか? とも思うが、実際のところは分からない。照明のランプはオペレーションで灯るときと、演者がスイッチを切るものに分けられる。

音も明かりも、浮かんでは消える。自分たちで終わらせるときと、外部の力によって終わらせられるとき。人間とモノの命のようだ。「全然違う」ことが、輪のように「同じ」こととして返ってくる。メトロノームは一定のリズムを刻んでいるようで、ゼンマイの戻りとともにBPMが遅くなっていく。天井のチューブからバケツへと落ちてくる水滴は、いつの間にか途切れている。これも人間とモノの寿命を感じさせる。ゆっくりと命が尽きていく。それは辛いことにも、永い眠りへの安らぎにも聴こえる。

舞台(といっても、客席とほぼ地続きなのだ)上には生者と死者がいる。どちらが生きていてどちらが死んでいるかを追い乍ら見ていたが、それは無意味に思えてくる。池袋でクルマ、というとある事故のことが連想されてしまうが、観ているうちにそれは穿ち過ぎだと思いなおす。皆が死んでいるようにも思う。キューちゃんは好きな映画を観るために出かけた映画館で死んだ。クルマは事故を起こして廃車になっているかも知れない。シミズも苗字が変わることで何かを死なせているかも知れない。フルカワは死にゆく祖母を見つめている。カラスの寿命は意外と長いが、どのカラスがいつから彼女を見ていたかは分からない。ひょっとしたら、こどもの頃に目が合ったあのカラスが、今もどこかで彼女を見ているかも知れないじゃないか。

人間ではないカラスに愛嬌を感じる。生物ではないタクシーをかわいらしく思う。擬人化されているから、という設定以上のものを感じさせる演者の力。シミズとフルカワが唄う声は、物体ではないのに近づき、離れ、融和する。夜中、暗闇で灯るコンビニの明かりにホッとするように、コンビニ袋のカサカサ音にも安心する。コンビニの明かりも私を、あるいは誰かを見ている。世界のあちこちに自然物と人工物が共生している。

モノを運ぶのが好きなタクシーはサンタになる。タクシーは記録を残すドライブレコーダーに意味はないと思っていたが、クリスマスソングを憶えているカーステレオに好感をもつ。「(昔の)映画の中の人は全員死んでいる」が、記録されているから現在それを観ることが出来る。常々「ああ、この映画に出てる動物、もう死んでるなあ」と思っていた。そうだ、人間もそうだった。今更ハッとする。やはり私は人類が好きではないのだ。

ポツリポツリと交わされる会話は、叫び声、ささやき声、たどたどしい発音とさまざまだ。そんななか激しく鳴らされるトランペットや打楽器は、災厄のように恐怖を喚起する。どんなに誠実に、注意を払って暮らしていても、そうでないひとと同じように天災や事故、あるいは攻撃がやってくる。恨みはしない。しかし、災厄を避けられたひとが、ただただ羨ましい。この言葉には、深い他者への優しさと自身への悲しみがある。そして思う、やはり私は人間を愛しく思う。再び、「全然違う」ことが、輪のように「同じ」こととして返ってくる。

カラスとシミズが交わす会話、「全然違うよ」と「同じだよ」は、こうして、人間への愛、映画への愛、演劇への愛、モノへの愛を静かに聴かせてくれる。

ラストシーン、懐中電灯が最後の変身を遂げる。スタジオの壁はスクリーンとなり、懐中電灯が映写機となる。映写機は何も映さない。いや、白い光を映している。パチン、パチンとライトのスイッチが切られる。空間は暗闇に包まれる。地明かりがつき、換気口? を演者たちが開けていく。

出演者全員が唯一無二の存在として立っていた。観ているこちらも同じこと。違うことと同じことをロングショットで捉える。長い時間のあとで、長い射程を経て、また会いたい。そう思う。

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・作者の鈴木健太さん、照明、音響、演出助手、告知ビジュアルも手掛けていた。ヌトミックにも出演されているとのこと。これからも作品を観ていきたい


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03月25日(土)
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