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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■音楽堂室内オペラ・プロジェクト『シャルリー 〜茶色の朝』
出演者は第T部と同じ「アンサンブルK」の面々。もともと「禁じられた音楽」「収容所の音楽」を発掘し演奏するプロジェクトを続けていたカンパニーで、『シャルリー 〜茶色の朝』世界初演のメンバーでもある。ソプラノ、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、パーカッションの六人編成。コンサートでは正装だった彼らが、私服にも見える普段着の衣裳に着替えて登場。紗幕で仕切られたステージの前方(客席側)でソプラノが唄い、後方でミュージシャンが演奏する。ミュージシャンたちはときに演じ手とともに唄い、ときに紗幕を超えて演じ手に茶色い服を着せたりと黒衣の働きもする。その姿はまるで、主人公をじわりじわりと拘束する勢力にも見えてくる。
主人公の住居である椅子、テレビ、ゴミ箱が置かれた空間で、登場しないタイトルロールである「シャルリー」と過ごす時間を、ソプラノがほぼひとりで演じる。この「ひとり」というのが効果的。個人の妥協がやがて取り返しのつかないことになり、結託する間もなくひとりひとり拘束されていくという恐怖がありありと伝わる。噂好きの、目に見えない集団によっていつの間にか自由が奪われていく。助けてくれるひとは誰もいない。袋に入れたペットをゴミ箱に捨てる場面で、ショパンの「子犬のワルツ」が流れる。こんな親しみ深い曲に乗って、ファシズムはやってくる。
それにしてもこの「なあなあ」感、序盤から危うい。「茶色がもっとも都市生活に適していて、子どもを産みすぎず、えさもはるかに少なくてすむ」と「選別テストで証明」されているという尤もらしいお達しに「問題を解決しなきゃ」「仕方がない」と尤もらしい言い訳で、「自警団」が無料配布している毒入り団子で今飼っているいぬやねこを殺処分してしまう“一般市民”のやべー感。しかし、モヤモヤしつつもその違和感を心の隅に押しやってしまう様子には、こちらも身に覚えがあり過ぎる。新聞が廃刊しても、出版物が撤去されても、排除される側に問題があったのだと思い込もうとする。自分が声をあげなくても、誰かが反対してくれるだろう……。主人公と自分との間に違いなどあるのだろうか?「なあなあ」が「あるある」になる恐ろしさ。
主人公の最後の台詞は「今行くから」。強制連行とは名ばかりで、自らの足で進んでその一員になるという意味にもとれる。長いものに巻かれるって楽よねえ。吉本隆明が何かで「人気のあるもの、売れているものにはそれだけの理由がある」みたいなことをいっていたが、多くの支持を得るものは、同時に警戒すべきものなのだ。ソプラノが唄いあげた「笑いの型」に背筋が寒くなったのは、自分がまだ集団の熱狂に巻き込まれていないということなのだろうか。しかし、持ち堪えられるのはいつ迄だろう?
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ジネール(オンライン参加)とやなぎみわさんとのクロストークも刺激的だった。やなぎさんは『シャルリー〜』を「亡命のオペラ」と表現した。そして、台湾での初演を控えている自身のプロジェクト(『アフロディーテ 〜阿婆蘭』)のことを話した。オブラートに包んだいい方をしていたが、この作品は台湾で再演出来るだろうかとも危惧していた。中国は、今後6年以内に台湾へ侵攻する可能性があるともいわれている。香港で起こったことを目にしていれば、不安になるのも無理はない。
『アフロディーテ 〜阿婆蘭』は、舞台を装備したデコトラであるステージトレーラーで上演される。やなぎさんは冗談めかして「さっと上演して、さっと去ることが出来る」と話した。ゲリラ的な上演が出来るということだ。そんな状況がいずれ訪れるのだろうか? 逆にいえば、『シャルリー〜』のような作品が招聘出来ている今の日本には、まだ希望があるともいえる。
やなぎさんの2000年代の作品に『フェアリー・テール:エレンディラ』がある。自由を手にするために、あるいは自由が目の前にある瞬間、自分はエレンディラのようにひとりで駆け出すことが出来るだろうか? ジネールは「芸術はレジスタンスだと思っている」「芸術家が抵抗しなくなったらおしまいだ」と話した。「皆さんの朝が茶色一色ではなく、赤や黄色や青や緑であることを願っています」。
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10月30日(土)
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