ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■配信の『S/N』についてのメモランダム
リフレイン、映像と身体の見せ方、音楽の使い方。クラブカルチャーとの結びつき。リフレインについてはテクノクラートの『ドナドナ(doner-doner)』(1993年)が思い出されたが、これは影響というより同時代的なものだろうか。テクノクラートは、HIVを含む(とされる)50リットルの血液を剥き身で展示した『カミング・アウト』(1993年)という作品も発表している。マームとジプシー、吹越満演出の『ポリグラフ─嘘発見器─』(2012年)はここからの影響があったのか、それとも……ダムタイプが日本の「舞台芸術」に及ぼした影響について思いを馳せる。

忘れてはならないのが、全編にわたるユーモア。後述の『memorandum』で、古橋さん本人が「関西の血」、浅田彰が「吉本(興業)思想」と発言している。今となっては吉本興業のイメージも変わってきているが……とにかくこのユーモアが、ヘヴィーなテーマに柔らかさと優しさを加えている。当事者を憐れむな、というこれまたステートメントにもなる。HIVは神からの罰ではない。

ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが「LOVE SONG」の対話シーンについて「古橋悌二が提案したイメージは『友人どうしの、クラブのトイレの前のヒソヒソ話』でした。」と仰っていて、すごく合点がいった。防音が利いていないトイレ前ではヒソヒソとはいってられないね、大声になるよね、なんてクスリとしたり。今作はゲイカルチャー、クラブカルチャーとは切っても切れない関係にある。

・誰がDJカルチャーを破壊してきたのか?┃FUZE
“今となっては日本におけるその源泉が80年代後半の英国レイヴ・カルチャーにあったのか、70年代NYのゲイ・クラブ、パラダイス・ガラージにあったのか、ベルリンのテクノ・シーンにあったのか、英国やジャマイカのサウンドシステム・カルチャーにあったのか、そこは正確には定義できないと思うんですよ。でも、少なくとも90年代当時は、そこで流れる音楽がテクノであろうが、ハウスであろうが、ドラムンベースであろうが、たとえロックであったとしても、何かしらそこから派生した共通の価値観をシェアしようという気運が間違いなくあった。DJにもクラウドの側にも。”
“クラブ・カルチャーというのは、それくらい社会に影響を与え、社会について考えさせる文化”
“不特定多数の市井の人々の意識を培って、これから先の社会をよりよくしていく基盤を用意するのは文化なんだ、という事実がどうにも忘れられがち”
“かつての文化がどんな風に変節したか、その事実を知ること、それについて考えることというのは決して無駄ではないと思うんです。”
振り返るのに良い記事。タナソーが「荷が重い(略)俺が話せるのは、すごく限定された歴史観でもあると思うんですね。そこはまずきちんと強調しておきたい。」っていってるけど、確かに……当時の現場を知るカルチャーマガジンは『remix』もだけど、『loud』が重要な資料になると思う。手放してしまったのが悔やまれる。

・1995年までの日本ヒップホップ年表┃[radiodAze]
自分の夜遊びデビューは90年代初頭のインクスティック周辺で、窪田晴男〜S-Kenの流れだった。東京ソイソースが起点かなと思うくらいで意識していなかったけど、あれはヒップホップシーンだった…のか……? 振り返らないとわからないこともあるものだ。その後Yellow(何がきっかけだったっけ、U.F.O.から? レピッシュかな……)に行くようになって、FUZEの記事でいわれているような「90年代中盤に本格的に誕生したクラブ・カルチャーの現場」に行き始めた。正に1995年くらいから。そう思うと、古橋さんのクラブ活動とは丁度入れ違いだったんだなあ。京都メトロについて話を聞いたのもずっとあとの話。

まあそもそも、エイズ禍でアーティストたちがバタバタと亡くなっていく頃、自分は宮崎の片田舎にいたのだった。音楽誌もだけどマンガ雑誌のカルチャーコーナーから知ったことも多い。上條淳士がHIVをモチーフの一つとして描いた『FLOWERS of ROMANCE』を発表したのは1987年、単行本化されたのは2010年(!)。カナリアとしてのマンガの役割を思う。


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05月10日(月)
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