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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■智族GQ12月号B
一足先に部屋から出て行った子ども

7歳になる前は閩南語(台湾語)しか話せず、日本人学校に行ってから日本語を使い始めた。
小学校を6年で卒業するとき書いた作文の課題は「大きくなったら」。
彼は「スーパーマンか警察官」になりたいと書いた。
台北アメリカンスクールでは3年間英語を学んだが、
中国語の作文能力は相変わらず身に付けられなかった。
「どれも不十分、話せるだけ。日本にしばらくいて、中国に戻ると、中国語が変になってるし、
急にまた日本に仕事で行けば、自分でもなんでこうなるのという話し方になってしまう」

言葉の訓練がどれも十分とは言えないことで、インタビューのとき問題になるのは、
頭の回転の早さで口を衝いて出るユーモアを別にすると、大部分の言葉は、
一字一句よく考えて書いた書き言葉のように聞こえることだ。
話し言葉風でなく、一言一言正確にはっきり発音して、明晰に聞こえるようにしている。
文章でのコミュニケーションの方が頼りになるようであり、
あの、撮影現場における大陸の監督たちが、4つ、5つのことばを口にすると
もう実に適切な表現になっているのを羨んでいる。
例えばチャン・イーモウだ。
イーモウの話を聞いていると、まるで映画を見ているような気持ちになる。
そうした一見簡単で日常的に見えることが、彼には努力しても全然追いつけない。

1991年、「日中ハーフ」として台湾で知られるようになって2、3年経った頃、
18歳か19歳のときに、初めて日本を訪れた。
東京国際空港の中に足を踏み入れたとき、大きな文字が目に飛び込んだ。
「お帰りなさい!」
それは日本のテレビで、玄関で待っていた妻が90度に体を折り曲げておじぎをし、
頭を上げて、ずっと用意していた笑顔で夫に対するときの感じがした。
彼は心の中でつぶやいた。
「ぼくは帰ってきたのか? 初めて来たのに」

昔から台湾芸能界は、混血や何らかの海外のバックのあるアイドルを作ることに熱中してきた。
1970年から75年生まれの、金城武と同時代だと、
今でも有名なココ・リー、ワン・リーホン、陶x、黄立行である。
彼らの高校が台北アメリカンスクールで、芸能界からは、
西洋モデルであるABC(アメリカで生まれた中国人)と混血児の
宝の山とみなされてきたところである。
台湾産の経営者たちの子女と共に、国民党高官の子孫、テレサ・テン、費翔、
ピーター・ホー、潘瑋といった芸能界でよく知られた新旧の名前は、みな同窓生である。

創立した当時、台北アメリカンスクールは、アメリカ軍の子女が
台湾でもアメリカ式教育が受けられるようにするためのものであった。
米軍撤退後も、この学校は、教師にはすべて外国人を採用する伝統を維持し、
教育系統はアメリカと共通で、そのままアメリカの大学に進学できるようになっていた。
外国籍の学生しかとらなかったので、台湾本土の富豪たちの間では、
ヨーロッパの小国ベルギーに土地を買うことで外国の国籍を取り、
子女を無事入学させることがずっと行なわれてきている。

アメリカ人が去ってからの台北アメリカンスクールは、
台湾人からは「英語を学ぶのに一番いい場所」と考えられている。
ランクによって学費が違うため、台湾在住の日本人父母は、
子どもが英語試験の難関を突破できないことを心配して、
まず少しレベルの下がるミッションスクールで1年間補修をさせ、
翌年試験を受けさせるという、回り道をさせたりもする。

「忘れられないのは、入学試験の英語の面接試験のときのことです。
試験官が『1億ドルあったらどうしますか?』と聞いたんです。
その数字をぼくは初めて聞いたので、きっと100ドルとか1000ドルとかだろうと思い、
おもちゃを買ったり、本を買ったり、あれ買ったりこれ買ったり……と答えたんですが、
その後、別の受験生がその質問にこう答えているのを見たんですよ。
こう言ってました。「部屋を買ってお父さんにあげます」って。
ぼくは『どうして買えるんだ!?』って思ったけど、

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12月22日(火)
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