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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■オリンパス春季新製品●金城武をセールスするA
すでにサイトも更新されてる春季新製品発表と新しい宣伝写真。
大きなのを中国サイトから拝借。春ですね♪

    



金城武をセールスするA  (19:40)

的を射た販売戦略

「金城武のマネジメントの方針は、他の芸能人とは全く違う。
彼の背景を考慮し、初めから国際志向でやってきた。」
長年、金城武のマネジャーを務め、福隆のゼネラル・マネージャーでもある姚宜君は、こう強調する。
もともとバイクを買いたいということしか頭になかった少年が、
プロダクションにスカウトされ、アジアの芸能界で成功するに至った、そのカギは、
3つの販売戦略の駆使にある。

その1 ボーリング作戦・・・1本のピンを狙ってストライクを取る

金城武は現在、人気ハイテクノロジー商品のキャラクターをつとめているが、
彼が芸能界で地歩を築いてきた過程を見ると、
ハイテク製品の販売戦略と通じるところがあるのがわかる。
シリコンバレーの有名なハイテク商品販売のベテラン、ムーアは、
新製品を発売するときは、消費者全てにアピールするものにしようとして、
製品にあらゆる性能をつめこむのは間違っている、
まず市場をゆり動かすことだけを考えればよいのだと語っている。

そして、正しい販売戦略とは、消費者の最も切実な需要、1つだけに的をしぼって市場を獲得し、
その上で、順次新しい効能を打ち出し、市場を広げていくことだと語る。
すなわち、ボーリングでは、1度に全部のピンを倒そうとはしない、
1つのピンを狙って倒し、それが第2、第3のピンを倒していくように仕向ける、
それと同じだというのだ。

金城武が芸能界に入ったとき、台湾にはすでにニッキー・ウー、ジミー・リン、
スー・ヨウポンの3人の若い男性スターがいた。
イメージも路線も金城武と重なっていたが、デビュー時期が早かった分、
知名度において、金城武をはるかに引き離していた。
そこで福隆は、武をまず歌手として売り出すことにした。
「CDの場合、(映画などに比べ)集中的にマスコミに露出できるので、
短時間で最大の効果が期待できるからだ」
と、芸能界を熟知する姚宜君は説明する。

福隆は、武を有名な音楽プロデューサーであるボビー・チェンのもとへ特別に送り込み、
歌唱とアルバム製作の仕事を学ばせた。
初め、ボビー・チェンは彼を録音室の見学に連れて行っただけだったが、
数ヶ月経つと、楽器など手にしたことのなかった金城武は、
歌も歌えば自ら作詞作曲も手がけ、ピアノを弾きこなすまでになっていた。

CDを連続リリース、知名度を上げる

1992年9月、金城武のファースト・アルバムが発売され、
集中的なマスコミ登場により、知名度は急速にアップした。
3ヶ月後には、すでに「四小天王」の呼び名が生まれ、彼は他の3人のアイドルと肩を並べていた。
続いて何枚かのアルバムを出し、人気が急上昇すると、福隆は次のステップに入った。
映画への進出である。このステップでの福隆の狙いははっきりしていた、
すなわち、様々な手段を用いて、芸能市場にこの人物を認識させることである。

金城武の初期の映画はコメディが多く、「報告班長」がその代表である。
プライベートにはかなり内向的な性格である金城武は、
撮影中の休憩時間は1人で読書やゲームをして、あまり他の人とは話すことがなかった。
しかし、いったん撮影となれば、即座に役に入り込むことができた。
映画界に入った当初、彼のギャラはわずか40万台湾元、
同じ四小天王のジミー・リンは300万元を超えていた。

金城武と6本の映画を撮った監督・朱延平は彼をこう見る。
金城武は自分の持ち味を出すのがうまく、
どんな役柄でもそれぞれに味わい深く演じることができる。
「チャウ・シンチーのようにお笑いだけでなく、
ジャッキー・チェンのようにアクションだけでもなく」。
もともと非常に優れた素質を持っていた金城武は、徐々に自分自身の道を切り開いていった。
そして、香港に行き、ウォン・カーウァイの映画に出演することで、

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03月07日(土)
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