ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■翻訳企画:AAの回復率(その5)
セクションd)では、初期のAAが75%の回復率を達成していたとされることについて、それが何を出典として引用され続けてきたのか明らかにしていきます。

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d) AAの50%+25%の「回復率」の情報源と引用の時系列

「合わせて75%の回復率」という見解がAAにおいてこれほどまで長く残ってきたのは、それが一貫性のある統計によって証明されたものだからではなく、むしろ伝承が繰り返されてきたことによる。それは極めて一貫性に乏しく、事実の確認が難しいデータや記録であって、AAの回復率について、正当性であれ無効性であれ、論じるためにふさわしいものではない。

AAの共同創始者ビル・Wによって確認され「50%+25%(合わせて75%)の回復率」を成し遂げたとされた標本は、ビッグブックの初版に個人の物語を掲載した初期メンバーたちである。6

6. ビッグブック第2版のページ番号の振られていないp.167~169に、個人の物語の紹介でビル・Wが記している。

それ以降、このパーセンテージの出典や妥当性について、何も説明や証明はされていない。以下では、回復率についての参照と引用が様々な文献で繰り返されていく様子を年代順に追い、またこの数字に影響を及ぼした要因について述べる。

1938年7月−記録に残る中で最も古い言及は、ビル・Wが、リチャード・C・カボット医師に宛てた手紙の中で引用されているものだ。ビル・Wはこう記している。

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これまで私たちは正確な統計情報を作成したことはありませんが(強調追加)、私たちはこれまですべてをあわせておよそ200の事例を扱い、そのおよそ半分が回復していると思われます。医師たちによれば、私たちはほぼ例外なく、一般的には絶望的だと見なされている範疇の問題飲酒者だそうです。7
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7. 1938年7月のビル・Wからリチャード・C・カボット医師への手紙。GSOアーカイブ ref: 1938-81, アルコホーリク財団, R 28, Bx 59.

1938年8月−当時のAAメンバー数は相対的に少なかったので、個々のメンバーの成功・失敗を追跡することが可能だった。アルコホーリクス財団理事会の最初の会合議事録によると 8、初期のニューヨークのメンバーハンク・Pが、フランク・アモスの求めに応じて共同体の中のアルコホーリクと(メンバー)候補者について一斉調査をした結果を報告した。それは二つのグループ(オハイオ州アクロンとニューヨーク)によるものだった。ハンク・Pの報告した数字は、

8. この議事録の日付は「1938年4月11日」と間違って記録されている。GSO アーカイブref: 1938-19, アルコホーリク財団, R 10, Bx 22.



94人のメンバーと候補者のうち、51人は「確実な」回復者であると見なされていることからすれば、回復率は55%となる。「確実な」51人のうち10人は「連絡がない」(これは断酒しているが、ミーティングに出席しないか他のメンバーと連絡を取らないことだと考えられる)。1938年に報告されたメンバー総数は、ビッグブックが1939年8月に出版されたときに表明されたメンバー数より4人少ない。

1940年2月−50%+25%の成功率について最初の公けの言及は、ニューヨークのユニオンリーグクラブで行われた歴史的なロックフェラーの夕食会でビルが行ったスピーチで、こう述べている。

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この本が出版された昨年4月の時点で、私たちはおよそ100人おり、その多くは西部にいました。私たちは正確な数字を持っていませんが(強調追加)、最近人数を数えたところ、このことが始まってから真剣に興味を持ってくれたすべての人の中で(強調追加)、そのおよそ半分がまったく再飲酒していません。25%は何らかのトラブルを抱えているか、あるいは過去に抱えていましたが、私たちは彼らが回復するだろうと判断しています。残りの25%については分かりません。
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「真剣に興味を持ってくれたすべての人の中で」という限定条件に注目して欲しい。これは、主張されている成功率が、AAにやってきた人すべてを対象としたものでないという重要な背景情報を提供してくれる。この情報はしばしば見落とされ、削除されてしまう。


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01月29日(木)
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