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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」二日目/博多弁・ア・ゴーゴー!
ワークショップ二日目。
仕事を定時に引き上げて、電車に飛び乗る。
地下鉄への乗り換えは、昨日もそうだったが、駆け込み乗車だ。
そうしないと、6時の開始時間に間に合わない。
要項には「遅刻OK」と書いてあるが、そう書かれてあると、「絶対に遅刻なんかしてやるもんか」という気になる。
天邪鬼なことだが、気分はまさに「生徒」になっているということだ。世の学校関係者も、「遅刻? 好きにすれば?」と生徒に言ってみたらいかがか。それで誰も来ない教室で先生が泣くことになっても私は知らんが。
勢い勇んでイムズ会議室に到着したが、森田さんはまだ来られていなかったので、拍子抜け。
それどころか、集まっている参加者もまだ五、六人である。
パイプ椅子にちょこなんと座っているしげ。に聞くと、昼間は演劇学校の生徒が大挙して来ていたとか。「若い子がいるとやりにくい」とか言ってるが、昼の部から来たかったなー、と真剣に思う(笑)。
昨日はイムズホールの方で、肩慣らし的に、「自分の両親を演じる」「夫婦喧嘩の気まずい雰囲気を出す」「自分と反対の人を演じる」「自分が無視したい人」「くつろいだ部屋の中に闖入してくる人」などを演じさせられた。
基本的に脚本のない即興芝居だから、「演じる」ことはシロウトには難しい。
そこで、「身近な他人のイメージ」を借りる。それはいいのだが、本番で客の中にその演じた知り合いがいないことを切に願ってしまう。どうしてもその人のエキセントリックなところを真似してしまうからね。
いや、厳密には「イメージを借りる」というのは「真似する」のとも違うだろう。
実際にその人が語ったことをそのまま口にするわけではない。森田さんは、「イメージが借りられれば、言葉は自然にどんどん出てくる」と仰る。実際にそのモデルの人が喋った言葉ではなく、「その人ならこう喋るだろう」という言葉が紡ぎ出されていくのだ。
私が「これが自分だ」と思っている「自分」もまた、仮構された一つのキャラクターに過ぎない。逆に言えば、「私って口ベタだから」とのたまう方は、「口ベタな自分」をイメージしているから喋れなくなっているのだとも言える。
喋れる人をイメージすれば、人は喋れるようになるのである。
イッセーさんは今日はイムズホールで本番の舞台があるので、今日は来られない。
五分遅れでやって来られた森田さん、また新しい人が参加しているので、心がまえのようなことを仰る。
「内容のあることを喋ろうとするでしょ? そうすると途端に言葉が出なくなるよね。でも好き勝手に喋ってる人の喋りってのは内容なんてないの。世の中、内容のあることのほうが大切だって風潮があるじゃない? そうじゃなくて、内容のないことの方がずっといいんだって芝居を作ろうかって思ってるの」
「内容のない芝居」というのは、「無意味な芝居」という意味ではないのだろう。
内容なんてないのに、何か面白い。シロウトばかりなのに、なぜか目が離せない。予測不可能の舞台。そういうものが目指せればいいのかもと思う。
最初は「夫婦喧嘩」。これがうまく乗っていかない。それで「学校の先生」を演じてみる。その口調のイメージを持ったままで、夫にすり変えていく。
「かなり高級なことをしてるからね」と仰る通り、「イメージのスライド」を即興でやるというのは「シロウト」をただの「シロウト」として捉えたのでは、とても要求できないことだろう。「シロウト」だけれども「人間なら」生きるために必要となるスベの一つ。
そんな気がする。
いつものことだが、練習が始まると頭が真っ白になってしまう。
「沖縄でワークショップやったんだけど、誰も沖縄民謡のこと知らないのね。本島の人はもう風習なんかが分からなくて、(別の)島の人が知ってたりするの」
何の話かと思ったら、「博多らしさを出していこう」ということらしい。
具体的には「方言」を取り込んでいく練習である。
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11月10日(金)
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