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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■どんな夢を見た?/『奇談(キダン)』(諸星大二郎・行川渉)
映画の話題を二つ。
夏目漱石『夢十夜』を原作とした映画『ユメ十夜』が撮影中である。
見る前からあまり文句を付けるのはよくないことだと承知してはいるのだが、タイトルが一部カタカナになっているのはちょいといただけない。字面のバランスというか、座りがどうにもよくないように思えるのだが、このあたりはセンスの違いってことなのかなあ。
まあそれは些細な問題なのだが、『夢十夜』の映画化、と聞いて、「えええ?」と驚いた人はかなりいると思う。「できるのそれ?」と。
夏目漱石の全小説の中でも、本作を最高傑作と推す人は少なくない。漱石は『猫』や『坊ちゃん』や『三四郎』や『こころ』や『明暗』だけの人ではないぞ、ということで、特に幻想小説、怪奇小説のファンにとっては『夢十夜』は内田百フの『冥土』などと並んで、バイブルのようになっている。お読みになっていない方もそうはいないと思うが、『夢十夜』ほど、活字の持つ想像喚起力を発揮している小説も滅多にない。だからこそ「映像化不可能」な部分は多く、それを映画化しようというのだから、これはかなり無謀な企画ではあるのだ。
しかし、これまで本作が全く映像化されたことがないというのも、日本映画の不毛を象徴しているようなものである。安っぽいCG映像でお茶を濁されちゃうんじゃないかとか、不安はあるのだが、ともかくもそのチャレンジ精神は賞賛しても構うまいとは思う。
一夜ずつ10分という、オムニバス映画の形式を取るので、十夜をそれぞれ別の監督で撮影するそうだが(共同監督もあるので11人とか)、今のところ発表されているのは「第一夜」の実相寺昭雄監督のみ。主演は松尾スズキと小泉今日子である。役者はそう悪くはない。
「第一夜」は、「百年待って下さい」と言い残して死んだ女の墓に、男が星のかけらを供える話である。未読の方もそうはおられまいから、ラストの文章をそのまま引用する。
〉すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂(いただき)に、心持首を傾(かたぶ)けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
〉「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
視覚的だから、映像化は簡単だろう、というのは短絡的な思考である。活字の喚起するイメージと、映像が喚起するイメージはベクトルが全く違う。映像で茎を伸ばして花を咲かせても、それを観客が「すらりと」「ふっくらと」と受け取るとは限らない。ましてや「骨に徹えるほど匂った」様子など、映像演出と役者の演技でどれだけ表現できるものか、まず無理だろうというのが常識的な判断というものである。
そしてこれはもう、絶対映像化不可能なのが「百年はもう来ていたんだな」という男の述懐である。セリフでこれを役者に言わせてしまったら、雰囲気はもうぶち壊しである。ナレーションを入れるのではただの解説にしかならない。「百年経った」という事実は、役者が「演技力」で観客に伝える以外にないのだが、さて、その実力が松尾スズキにあるかどうか。
いや、そもそも「幻想の住人」たちに実体を与えること自体、原作のイメージをどうしたって損なってしまうものである。ミーハーなオタクや腐女子がすぐに騒ぐ「イメージが原作と違う!」というのは、言ったって仕方がないことではあるけれども、「原作を完全に映像化することなど不可能だ」という点では紛れもない事実ではあるのだ。
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10月25日(火)
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