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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■確執なのかなんなのか/ドラマ『熟年離婚』第一話
 朝方メールでグータロウ君とやり取り。
 またまた『神様ゲーム』についての激論だが、どうしてグータロウ君が自説に拘るのかと訝んでいたら、逆に彼から「どうしてそんなに自説に拘るんだよ」と言われてしまった。全く「どっちが」という話である。
 グータロウ君は「どう見ても鈴木君は神様だろう」と主張するのだが、昨日も書いた通り、「鈴木君を神様だと信じてしまった芳雄君の一人称で書かれた物語」なのだから、鈴気君が神様のように見えるのは当たり前なのである。どこぞの宗教の信者が「教祖様は御釈迦様の生まれ変わりでございます」と書いてるようなもので、これを真に受けるというのは常識的な判断力を失ってると言われても仕方があるまい。
 じゃあ、「鈴木君は神様ではない」と断じるのが正しい常識的な読み方かと言われると、もちろんそちらの方がより妥当性はあるのだが、それもまた決して合理的な見方ではない。何しろラストで芳雄君は完全に冷静な判断力を失っているのである。そんな状態ではあの出来事が現実かどうかも断定はできないだろう。だからあれをどう解釈するかについては「わからない」としか言いようがないのだ。
京極さんではないが、UFOやら幽霊やら、それらの殆どは錯覚だったり妄想だったり、合理的に説明できるものばかりだが、だからと言って「そんなものは『絶対に』いない」と完全否定できるものでもない。それを「見た」と人が信じる以上、それが外的なものか内的なものかは分からないが「何かがあった」ことは事実なのである。
 自然科学的な判断と、合理主義的なものの見方とは、必ずしも一致するとは限らない。「神様なんているわけないじゃないか」と言い切ることは簡単だが、「人間」が「心」を持った存在である以上、その心の隙間に「カミサマ」が入り込んでくることを完全に止めることは不可能だ。この世はありとあらゆる「悲惨」で成り立っている。不幸が、災厄が、裏切りと迫害が、孤独が、運命が、人を苛むとき、どんなに理性的な人間であろうと心に揺らぎを覚えない人間はいないだろう。近しい人が亡くなろうとする時、信仰を持たぬ人でも神に祈りはしないだろうか? それくらい、人の心は弱くて優しい。
 『神様ゲーム』は、そんな「揺らぎ」を初めて覚えた少年の物語である。グータロウ君だって、かつて芳雄君と同じような孤独と悲しみを経験したことはあるはずだ。にもかかわらず、芳雄君の心に思いを馳せるまでには至らなかったというのは、「鈴木君は神様である」という芳雄君の判断をそのままに鵜呑みにして、一歩引いて彼がどのような心理の過程を辿ったかを見損なってしまったからだろう。ミステリファンが陥りやすい落とし穴であるが、謎の「解釈」に拘るあまり、その背景にある人間の心理にまでは思い至らないのである。端的に言ってしまえば、傲慢が心を支配してしまっているために思いやりの心をなくしてしまっているのだと言っていい。
 「ミステリとしてどうか」なんて疑問もグータロウ君は呈していたのだが、これについては江戸川乱歩の『陰獣』が「結末が曖昧」と批判されたことに対して、中島河太郎が「論理的な結末は一旦付けられている」と反論したことを想起してもらえれば、決して『神様ゲーム』もアンフェアだと非難することはできないだろう。事件の解明は一度、合理的になされている。あの衝撃の結末は、芳雄君が自己喪失してしまったあとの出来事なのだ。にもかかわらず、その結末を基準に、過去の事件の解釈まで曲げようというのは、我田引水に過ぎる。
 もちろん、芳雄君の悲しみを理解した上で、「あの出来事の意味は、本当はどういうことだったのだろう」と想像することは読者の自由である。しかしそこに「真実」や「絶対」はない。鈴木君を神様だと見る場合でもその逆でも、それなりの解釈は成り立つし、またどちらの解釈にも否定的な事実が付随して謎を更に深めることになる。グータロウ君はネット上の「解釈」をいろいろあさったようだが、そんなものは全て推理マニアの自己陶酔の粋を出るものではない。いくら読んだところで、何の意味もないのである。まだしげのように、「よく分からなかった」で考えるのをやめてしまった方がマシというものだ。

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10月13日(木)
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