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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■人はいかにして欺かれるか/ドラマ『相棒』〜シーズンW〜スタートスペシャル「閣下の城」
 以前、この日記でも紹介した、麻耶雄嵩『神様ゲーム』であるが、びっくりしたことに吾妻ひでおまでがホームページの日記マンガで誉めていた。これはちょっとした事件である。
吾妻ファンでもあるグータロウ君に早速そのことを教えておいたのだが、途端に現物を購入して読んだというから手が早い(←こういう場合に使う言葉ではナイ)。
 けれども正直言って、新本格以降のミステリにかなり偏見があるらしいグータロウ君には、ちょっと「厳しい」んじゃないかと危惧していた。だから「流し読みしたら面白く読めないぞ」とメールで忠告しといたんだが、彼の日記を読むと、やっぱり流し読みして結末の意味がよく分からなかったようである。
 これって、「意味がわかんない」から「どういうことなのか解釈しよう」とした瞬間に、作品自体の本質が見抜けなくなる仕掛けになってんだけど、その罠に見事に引っかかっちゃったんだなあ。「志が低い」なんて言ってるけど、それは「解釈しようとした読者」の志が低いんであって、作品自体がそうなのではない。だいたい内容がよく理解できていないのにその「志」だけは理解できたというのはとんだ矛盾ではないか。実際には何一つ作品が読めていないのである。
 グータロウ君、最近は何かとトンチンカンな言動が多いので、また勘違いしちゃうんじゃないかと心配はしてたんだけれども、悪い予感が当たった形になって、いささか残念である。

 『神様ゲーム』が難読だと思われているのは、あのとんでもないオチを付けてくれたことに起因しているのだが、もちろん、それが作者の仕掛けた「罠」であることは言うまでもない。たいていの読者が「鈴木君は本当に神様だったのかどうか」という点でアタマを悩ませているようだが、それは実はどうでもいいことなのである。
 ミステリーである以上、ネタバレは控えなきゃなんないのだが(そのあたりを気にせずに平気でオチ書くやつらがネットには多すぎるんだよな)、ある程度は書かないことには、グータロウ君が落ち込んだ陥穽がどんな性質のものなのか、説明ができない。だからギリギリの線で、トリック等についても触れることになるが、諒とせられたい。
 ネットであれやこれやと「解釈」している読者が、ポカンと忘れてしまっているのは、これが主人公・芳雄の一人称で描写されているという事実である。
 ミステリを書く場合、それを一人称で描写するか、三人称で描写するかについては極めて重要な意味がある。即ち、それが「叙述トリック」に深く関わってくるからだ。一人称を採用した場合、その語る言葉にどの程度の客観性があるかは重要なポイントになる。所詮は「主観描写」であるのだから、三人称である「客観描写」に比べれば読者に与えられる情報が不公平になりがちだ、と思えてしまうところだが、実際にはその「穴」を逆利用したミステリの傑作も数多く生み出されていることは周知の通り。この『神様ゲーム』も、そうした先例に倣っている点は多々ある。
 芳雄君は初めこそは多分に理性的だ。猫殺し事件も友達殺しの事件も、小学生とは思えないほどの(笑)理性でもって「真相」に肉薄していく。しかし、「神様」を自称する「鈴木君」にであったことで、その理性にどんどん「揺らぎ」が生まれていくのだ。「鈴木君が神様であるかそうでないのか」という問題も、最終的には芳雄の「理性」に任されていることになるのだが、その芳雄が理性を失ったらどうなるか。
 「オチが理解できない」とか、「多様な解釈が可能だ」という声が出るのは、なぜなのか、ということと絡めて考えてみていただきたい。八割まで芳雄君は事件を「理性的に」読み解いていながら、残り二割については、理性を放棄してしまったのである。だから彼は最終的に「神様の実在」を信じることになる。実は、それを描くことこそが作者の主眼だったと言ってよいだろう。これは言ってみれば、「探偵」が八割方、事件を解決していながら、最後の二割でケツ割って逃げた物語だと言えるのだ。

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10月12日(水)
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