ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491657hit]

■ほのぼの気分と切ない気分/ドラマ『1リットルの涙』第一回
 出勤途中、同じく通学中の学生さんのなんちゃない会話に耳をそばだてる。
 今日は、朝から涼しい風が吹いていた。駅の横の陸橋を渡っていた時、通り過ぎて行った男の子どうしの会話である。
 「これくらいが涼しくてちょうどいいな」
 「ああ、これなら走っても汗かかない」
 「走ったら汗はかくよ」
 「そうか? 俺はかかないけど」
 「俺はかくよ。冬でも走ったらかく」
 それだけの会話だけれども、ちょっと「秋らしいなあ」と思った。
 ちなみに私も冬だろうと走れば汗はかく。もっともそれは私が太っているからだが。
 こっちの日記でもたまにはこういうほのぼのした話題も書いてみたけど、いかがでしょうか(笑)。 


 とか何とか言いながら、また、殺伐とした話題。パキスタン地震について思うこと。
 発生から三日が経つが、被害はまだ拡大の一途を辿っている。こないだのアメリカのハリケーンと言い、世界規模でこうも自然災害が連続すると、ヒトコママンガじゃないが、「終末は近い」ってプラカードでも掲げたくなる気分だ。今が宗教の儲けどころか。
 やはり一番悲惨を感じてしまうのは同胞の死であって、イスラマバードの高層アパートで亡くなった国際協力機構(JICA)の楢原覚さんと、まだ2歳だった息子さんの輝ちゃんのニュースは、聞くだに暗澹たる気分に陥ってしまう。
もう十日ほど、地震が来なければ、二人は帰国して助かっていた。運命であるとしか言いようがないが、逆に、運良く助かった人もいるわけで、誰を恨むこともできないことがかえって恨めしい。「人間は何のために生まれてきたのか」なんて疑問を抱くだけ詮無いことである。
 奥さんの楢原ひろみさんは、地震発生直後に旦那さんにテーブルの下に突き飛ばされてかろうじて助かったと言う。けれど、こんなに辛いこともあるまい。いっそ、一緒に死にたかったと思いもするだろう。けれど、自分を助けてくれた夫の愛情を思えば、これは死ねない。本当の悲しみは、一生かかったって乗り越えられるような生半可なものではないのだ。
 神様なんていない。そんなことは分かっている。でも、いてほしいと切実に思うことがある。そして、髪に会うことができたらこう言ってやるのだ。「人間を将棋の駒にして遊ぶんじゃねえ」と。


 テレビドラマの新番組を立て続けに見る。
 『1リットルの涙』は、脊髄小脳変性症という難病で、若くして世を去った木藤亜也さんの日記が原作(ドラマでは、名前はそのままに名字だけ変えて「池内亜也」となっている)。昨年、映画にもなっていたのだが、全く気付いていなかった。
 だもんで、私もこれが実録の難病ものだとはついぞ気づかないままに見始めたのだが、主演の沢尻エリカが豆腐を落としたりつまずいたりする描写が重なるのを見て、「ああ、これはもしかすると失敗したか」と後悔した。ドキュメンタリーはまだしも、こういう難病ものの再現ドラマは苦手なのである。
 まさに沢尻エリカが、まだ自分の病気に気付かずに「私たちには時間があるんだから」なんてセリフを言うようないかにもな演出がイヤなんだが、一般的にはこういうドラマこそが「優良品」と評価されることも分からないではないのである。
 日ごろ、病人のことなど考えようともしない健常者のミナサマがたに、彼ら彼女らがいかに生きようとしているか、それを知る機会が与えられる、という点では「闘病ドラマ」というジャンルはあっていいのだろうとは思う。一部の病人が見世物や人身御供にされようが、募金が増えたり行政への働きかけがしやすくなる実利があるなら、我慢しようと考える病気の方々もおられると思う。
 しかし、そう現実的に考えながらも釈然としないのは、結局は「病人の本当の苦しみは、当人にしか分からない」という、これもまた一つのれっきとした「現実」があるからだ。
 ドラマを見た視聴者の多くが、涙を流すことだろう。全国の視聴者の涙を集めれば、それこそ1リットルどころではなくなると思う。けれどもその涙が、亜也さんの流した涙と同質であるはずがないのだ。

[5]続きを読む

10月11日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る