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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■映画が「見られる」ことの意味/水野晴郎トーク・ショー&映画『シベリア超特急5』
 三島由紀夫がかつて製作・脚本・監督・主演を務めた短編映画『憂國』(1966/実際上の監督は劇作家の堂本正樹だったそうだ)のネガフィルムが、東京・大田区の三島邸で発見され、DVD化されることが決まったというニュース。
 ちょっと映画やミシマに詳しい人ならこの映画の存在は有名で、その内容に嫌悪感を示した三島瑤子夫人によって、国内にあるフィルムは全て焼却処分され、幻のフィルムとなっていた。私もリアルタイムで見たことはなくて(3歳では無理である)、スチール写真でしか知らない。写真を見る限り、花びらの中で青年将校(三島)とその妻が抱き合い、死んでいる姿は、絢爛なイメージではあるがゲージツゲージツしていて鼻白む印象がないでもない。
 ともかくモノホンを見ないことには感想の述べようもないので、いっぺん見てみたいとは思っていたのだが、ともかく瑤子夫人の反対がある以上はかなわぬことであった。不謹慎な言い方で申し訳ないが、今回の「発掘」は、瑤子夫人が亡くなられたために実現している。
 夫人の反対は理解できないでもない。三島由紀夫は生前から様々な形で「批評の対象」として毀誉褒貶甚だしいものがあったが、瑤子夫人にとってはそんなことはどうでもよく、三島の割腹自殺以降は「夫」としての「平岡公威」を独占しておきたかったのだろう。ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』も未だに日本公開の目途が立たないが、これも瑤子夫人が本編中の三島のホモ描写に激怒したためだと伝えられている(私はあるルートでビデオを入手したが、それなりによくできた映画ではあった。身内以外の人には面白いだろう)。
 けれども、作家とか、役者とか、有名人は、ある程度はプライバシーを犠牲にしなければならないところがある。と言うよりも、もともと私生活も研究批評の対象となることを免れない存在なのだ。ましてや『憂國』にしろ『MISHIMA』にしろ、公共に提供されるべく作られたものなのだから、瑤子夫人が長年取ってきた措置は、横暴と非難されても仕方がない。
 『憂國』が公開されるとなれば、どうしても注目は三島の「割腹」シーンに集中することになるだろう。既にニュースの見出しは「自決を予告?」(読売新聞)だったりする。瑤子夫人の危惧が当たったようなもので、結局、世間の興味はそういう扇情的かつ表面的な部分にしか向かない。あるいは晩年の三島の「思想」がらみで、批判的に見られる可能性もある。それは、『憂國』に興味を持つ客の方にも影響を及ぼしかねないことで、つまり、こういう映画を見たがってるやつはみんな「ウヨク」じゃねえかとか、短絡思考で誤解されるかもしれないのだ。
 そりゃ、ウヨさんも見たがるかもしれないけれど、私ゃ単純にミシマという作家の軌跡に興味があるんだからね。大学時代、故・小田切秀雄先生の講義を受けて「三島は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』だけを読んでおけばよい。彼の書く小説は『小説以前』だ」という話を聞いて以来、三島の『黒蜥蜴』(乱歩原作!)がものごっつ好きだった私は、反発するようにその三作以外の三島作品を愛してきたのだ(念のため言っとくが、三島本人は嫌いだ)。ともかく、三島は付与する情報が多すぎて、作品が作品として純粋に見られることがあまりに少ないと思う。
 しかしそれを三島作品の「不運」と言い切ることはできないと思う。どんな作品であろうと、それが日の目を見ないことには批評の俎上にすら乗せられることはないのだ。たとえ偏見だらけで見当外れの批判をされようと、「作品」は「見られてナンボ」である。凡百のエセ批評など気にすることなく、『憂國』DVDの発売を待ちたいと思う。


 仕事を引けて、しげと博多駅の紀伊国屋書店で待ち合わせ。
 天神に移動して食事をしたあと、「ソラリアプラザ」で映画「監督」水野晴郎氏のトーク・ショーおよび『シベリア超特急5』を見る。
 もはや説明の必要もないほどに「有名」になってしまった『シベ超』シリーズであるが、なんだかんだで私は全作、付き合ってしまっている。そんなに面白いのかどうかと言われると困ってしまうのだが、ともかくこれは「愛」に満ちた映画だ。それは間違いない。

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08月19日(金)
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