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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■石井輝男監督、死去/『月館の殺人』上巻(綾辻行人・佐々木倫子)
映画監督の石井輝男氏が、昨12日、肺がんのため死去。享年81。
つい先月、『盲獣VS一寸法師』に主演されたリリー・フランキーさんのサイン会で、石井さんの話を伺ったばかりだった。私が「誰が何と言おうと、あれは乱歩の世界を忠実に描いた傑作だと思います」と言ったら、リリーさんは「石井監督も喜ぶと思います。あとで伝えておきます」と仰っておられたが、多分、お伝えする余裕はなかったろう。そのことを残念に思ってはいない。批判の多い映画、キネ旬ベストテンではただの一票も入らなかったが、あの映画の面白さに熱狂したファンは、きっと石井監督の傍にはたくさんいたと信じるからである。
同じく死の直前まで乱歩に固執した映画監督に深作欣二がいるが、彼の『黒蜥蜴』を見る限り、乱歩への認識は浅薄なものだったと断定せざるを得ない。彼が映画化を模索していた『怪人二十面相』も、完成していたとしても十中八九、駄作になっていただろう。
石井監督は『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『盲獣VS一寸法師』という二本の乱歩映画を残した。他の乱歩映画の大半が乱歩作品を映画のための素材としてしか扱っていないのに対し、石井作品のみが乱歩の幻魔境を深く理解し、映像化することに成功していた。乱歩の世界はとても寂しい。太宰治のような他人に媚び甘えるための「手段としての孤独」ではなく、人間が人間として生まれてきたからには逃れることのできない根源的な孤独である。乱歩小説の犯罪者たちが、犯罪という反社会的な行為を通してしか世界との接点を持つことができないのは、それが人間を二重三重に囲繞する様々な社会文化的虚飾を排したときに浮かび上がってくる最も根源的かつ究極の「孤独の解消法」だからである。
『奇形人間』の土方巽も、『一寸法師』のリトル・フランキーも、とても寂しそうだった。二人とも既に故人である。
映画としての破綻は問題にならない。あの破綻は、狂気と混乱と猥雑によって成立している乱歩世界を活写したことによる必然的な破綻だからである。カルト映画作家として、B級映画の雄として(このどちらの評価も私は好きになれないが)『スーパージャイアンツ』シリーズの、『網走番外地』シリーズの、『忘八武士道』ほか異常性愛路線の、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』二作のつげ義春の理解者としての石井監督を誉めたたえる人は多い。しかし、『奇形人間』や『一寸法師』をギャグではなく乱歩の忠実な映像化作品として評価する人は少ない。乱歩がこれほど人口に膾炙していながら、真の理解者が少なく、逆に世間から拒絶すらされている現状は悲しむべきことであるが、唯一喜ぶべきことは、石井作品だけが映像化という手段でもって乱歩世界を掬い取っていたことだ。他の傑作群についてはあえて触れない。そのことだけを指摘しておきたいと思う。
先日、チャンネルNECOで清水宏監督の『慕情』が放映されていたが、これが石井監督の助監督デビュー作だった。
夕方、父のマンションで母の迎え火。
五時ごろに店まで父を迎えに行く約束だったのだが、時計が四時を回ってすぐ、父から電話がある。「お前、なんでまだ家におるとや?」
「ああ、今から出ようかなと思ってたとこだけど」
「もう俺の方は準備ができたばい」
「ああ、じゃあ、すぐに行くよ」
まだ、約束の時間には早いじゃないかと文句は言わない。どうせ、約束の時間なんて忘れてるか思い違いをしているかのどっちかだ。寝こいていたしげを叩き起こして、慌てて飛び出す。
ウチから店までは車で15分ほどなので、四時半より前に到着した。着く間もなく、椅子に座らされて散髪。
以前は父が散髪して、洗髪と顔剃りは姉がという仕事分けだったのが、今は父が仕上げまで全部して、姉には触らせようとしない。父と姉の溝はまた少しずつ広がっているように思う。姉は店の片付けを父に任せて足早に帰って行った。
父は「オレの頭も姉ちゃんはいっちょんしてくれんくなった」とボヤくが、多分、姉に言わせれば「お父さんの方が勝手に別の床屋に行くようになったとよ」と反発することだろう。博多弁で言えば「やおいかん」(どうにもならない)状態で、気休めでもうちょっと仲良くなんて言える感じではない。
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08月13日(土)
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