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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■あのここな無知蒙昧な糞ったれどもめが(怒)/『空中ブランコ』(奥田英朗)
 吉本新喜劇の元座長で喜劇役者の岡八朗(2003年に「岡八郎」から改名していたそうな)さんが、昨26日、肺炎による呼吸不全のため死去。享年67。
 奇しくも昨日は中島らも氏の一周忌である。同じ兵庫県尼崎出身で、吉本の岡さんの芝居を日常的に見て育ったらもさんが一年先に逝き、そのぴったり一年後に岡さんが逝かれた。この暗合が悲しくて仕方がない。何でこう連日悲しい思いをしなければならないのか、正直、もう何も書きたくはないくらいなのだが、やっぱりこのところの訃報に関する故人の紹介の仕方に違和感を覚えているので、ちょっとだけ書く。
 「笑い」について九州に生まれてよかったな、と思えることは、関東の笑いも関西の笑いも平等に見ることができるからである。関東人はそもそも関西の笑いを全く知らない。東京進出している関西タレントは多いがそれは近年のことで、20年ほど前には松竹新喜劇も吉本新喜劇も全然テレビ放送がされていなかったので、その本質など知りようもなかったのだ。逆に、関西人は関西人で、関東人に対する対抗意識が強いから、関東の芸の面白さにあえて背を向けているところがある。志ん朝や談志のすごさをいっかな理解しようとしない。自分たちの論理で関東の芸を判断しようとするから、しばしばトンチンカンな見方をしてしまうことになる。
 関東対関西の不毛な諍いを見ていると、どっちも面白いじゃないか、と思えるのは九州人の特権かなと思える。
 無知なんだから仕方がないといえば仕方がないのだが、関東人には松竹新喜劇と吉本新喜劇の区別もついていない人が多い。渋谷天外・藤山寛美・小島敬四郎・藤山直美たちと平参平・岡八郎・花紀京・原哲男・船場太郎といった人たちとは芸風も舞台も全く違う(こういう名前を聞いてもピンと来ない関東人は笑いに関しては沈黙するように)。前者がチャップリンなら後者はキートンでありマルクス兄弟でありブルースブラザーズである。私だけがそう言っているのではない、中島らももそう言っていて、らもさんが影響を受けたのは当然後者なのである。
 人情・泣き笑いが松竹新喜劇の芸風なら、吉本新喜劇はドタバタ・スラップスティックであり、差別ギャグのオンパレードである。物語を収束させるために、最後に取って付けたように「人情話」で落ちをつけはするものの、そんなところに吉本の本質はない。ひたすら他人をからかい、欠点をあげつらい、チビ・ハゲ・デブの差別語が飛び交い、ナンセンスでシュールなギャグが舞台を埋め尽くす。まさに既知外沙汰だ。全盛期の平参平の体技はチャップリンやエノケンを凌駕していたし、花紀京のピカロぶりはまさに東洋のグルーチョ・マルクスと呼ぶにふさわしかった。そして岡八郎の「顔技」はジェリー・ルイスである。
 説明しなくたって関西より西の人間にはこんなのは常識なのだ。みなもと太郎が「関東人のギャグセンスが偏っているのは吉本を知らないからだ」という趣旨のことを発言していたのには私も頷くところが大いにある。
 だから、新聞などで岡さんの芸風を「人情味溢れる」などと紹介しているのは全くの見当違いである。若いやつが書いたのか関東人が書いたのか知らないが、これが岡さんに対してどれだけ失礼な発言か分かるまい。
 だいたい岡さんの持ちギャグ、「くっさ〜」「えげつなあ」「スキがあったら、かかってこんかい!」などを紹介しておきながら、これのどこに「人情」があると言えるのか。人情がないからこそギャグが切れるし、差別することで生まれる絆もあるのだ。いや、あえて岡さんの持ち味を「人情」と呼んでも構いはしないのだが、それは「関西人の人情」であって、関東人のそれとは似て非なるものであるのだ。関東人の人情はさっぱりしているが関西人のそれは絡みつく人情である。思いやりも優しさもからかいも罵倒もひっくるめた人情である。なぜなら、人間はみんな不器用だから、ぶつかりあい絡み合わなければ本当に心の底から絆を結ぶことはできない。それを感覚的に体得しているのが関西人なのである。関東人から見れば鬱陶しくて仕方がないだろうが、そういう文化があることも知っておかなければならないのではないか(逆に関西人も単純に関東人には人情がないなんて断言しないことである)。

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07月27日(水)
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