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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■若さゆえの過ち/『ななこSOS』2巻(吾妻ひでお)
夜、七時から、天神西鉄ホールで、E−1グランプリ番外編、マニアック先生シアターの『ロジウラ*ラジオ』と非・売れ線系ビーナス×万能グローブガラパゴスダイナモス『況わんや、百年振りの粗捜し』の二本立て。
「E−1グランプリ」というのは、要するに地方劇団同士の全国大会で、北海道・東京・名古屋・中国四国・九州の各地区大会を行い、それぞれの劇団が25分の短編演劇を上演して、お客さんに審査投票してもらい、上位入賞者による全国決勝戦を年一回行うというもの。うちの劇団にはやる気あるやついないから参加したことがない(苦笑)。
今回の「番外編」というのは、つまりグランプリに参加した劇団の凱旋公演のことで、素人劇団とは言え、そんなに外れはなかろうとちょっとは期待して見に行く(つか、知り合いのスタッフの女の子からチケット売りつけられたんだが)。
基本的に私は若い人ががんばってる舞台はそれだけで微笑ましく見ることにしているので、一応は満足。歌って踊って走り回って笑わせて、見ながらつい「若いっていいなあ」とトシヨリの感慨が脳裏をよぎる。今後の活躍も充分期待できそうだ、と評価してあげたいと思う。
……でもまあそれはこちらも演劇やってる人間としての共感・同情・連帯感が背景にあるからで、そういうものを一切排除した一観客として芝居を見た場合、どちらの芝居もあれやこれやと不満が出てこざるを得ない。そもそも作り手の「若さ=底の浅さ」がドラマを薄っぺらなものにしてしまっているのが、両作品ともに共通しているのである。
『ロジウラ*ラジオ』、街角の占い師のところにやってきたホームレス風の中年男。「私の探している『ドア』がどこかにあるはずだ」と妙なことを言う。占い師はその「ドア」がすぐそこにあると答える。そのドアから現れたのは、三人の男女。彼らはみな、自分は「ヤスシ」であると名乗り、中年男を「父親」だと呼んだ……。
「同一人物が何人も現れる」というネタは私も昔書いたことがあるので、ちょっとした台詞回しも含めてやたら既視感がしてしようがなかったのだが、自分で苦労した経験があるだけに、この芝居もどこがどうマズいのかが細かく見えてしまってかえって困った。無理にドラマを先に進めようとするあまり、設定も台詞がやたら無理っぽいというか、不自然なものになってしまっている。中年男が「ドア」を探して回るという導入自体、物語を不条理劇にするつもりがないのなら無意味で観客の感情移入を阻むものでしかないし、役者も何の心理的葛藤もなくだらりと演じているだけである。しかもオチは浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』の複数化なわけで、ラストをしんみりとさせたいのなら、「ありえたかもしれない子供たち」はロッカーのバカガキや性転換したダンス教師やあやしげな鯉の養殖屋じゃギャグにしかならない。つか、なぜギャグにしないのか?
小劇場演劇の隆盛は、芝居にはともかく「小出しのギャグ」と「ラストのしんみり」を入れなきゃならないという悪弊を生んでいる。それが決まる芝居ならばともかくも、この「本物は誰だ」ネタは、基本的にスラップスティックにしかなりえない(私は自分の脚本では当然そうした)。ドタバタギャグが日本人に通じにくいというのは分かるが、かと言って、木に竹を接いだような形でアットホームなオチを持ち込まれても、心情的に納得できるものではないのである。途中途中で差し挟まれるラジオDJのシーンも、家出した男が捨ててきた妻の消息を伝えるためだという作者の意図は分かるが、効果としては今ひとつ、それどころか話の流れを中断させることにしかなっていない。結果、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのはやはり「若書き」でしかない。
『況わんや、百年振りの粗捜し』、再演だそうだが、意味不明でしかもキャッチーでもないタイトルは改題したほうがよかった。
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04月09日(土)
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