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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦)
 出張で一日ばたばた。そのためか、買ったばかりの定期をどこかに落としたらしい。
 「もしかしてスラレたかなあ」とつぶやいたら、しげ、「あんたが落としたにきまっとるやん! どうして他人のせいにするとね!」と烈火のごとく怒る。別に他人のせいにしてるわけじゃなくて、どこでどう落としたかが皆目見当がつかないので(ポケットに入ってたほかのもの、鍵とかは無事で定期だけが落ちているのだ)、そう言っただけのことなのだが、しげは怒りのぶつけどころがなくて、私に当たっているのである。
 でも、落として損したのは私であってしげではないのだが。私が悔しがる前にしげが半狂乱になってたんじゃ、私はどうしたらいいのやら。


 映画監督の野村芳太郎氏が、8日、肺炎のため死去。享年85。
 遺作が1985年の『危険な女たち』(原作はアガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』。エルキュール・ポアロにあたる探偵役は石坂浩二!)つまり、十代、二十代の若い人は、リアルタイムで野村芳太郎の映画を見たことはないということになる。だからこその「誤解」が、この人に関してはかなり付きまとっている気がしてならない。
 例えばその「代表作」のように思われている松本清張原作による『砂の器』である。以前もこの日記やコンテンツ(現在再アップ中ですが)で書いたことがあるが、お涙頂戴好きの日本人には痛く受けていても、これは映画としてもミステリーとしても何ら評価すべき点のない駄作である。あんなハンセン病を「利用」した映画に価値を認めるというのは、いったいどういう神経の人間かと憤りを覚えるほどだ(詳しくは都筑道夫の『サタデーナイト・ムービー』を参照のこと)。
 公開当時も、知り合い連中で(もちろんコアな映画ファン、ミステリファンばかりなのだが)あれを誉めている人というのは皆無に等しく、「ヒットしてるって言うから見に行ったのに、何だあれは」と憤慨すらしていた。つくづく作品の出来と大衆受けとは別物なのだと実感せざるを得ない代表例が『砂の器』であった。
 今やその「大衆受け」でしかなかった虚名が定着し、後追いでこの映画を見た若い人はこれが本物の名作であると大きな誤解をしているように思える。まさしく「歴史の風化」と言うか、「古いものはみなよい」症候群に罹ってんじゃなかろうか。
 基本的に野村芳太郎という人は、特に個性的な演出家というわけでもなく、やはり松竹大船の人情路線の伝統上にあってペーソスは解せてもナンセンスギャグは不得手、社会派としてもごく小市民的で床屋政談的な思想しか持ち得なかった人で、だからこそ逆に一般大衆にはわかりやすい庶民感情に根ざした娯楽作品を作ることのできた職人監督であったと思う。70年代、80年代の「大作志向」の映画以前は、小品だけれどもたまにしんみりした文芸映画、コメディ、ミステリーなど、ジャンルを問わない映画を数多く撮っていた。原作知ってりゃ誰が見たってミス・キャストだろうって印象の、美空ひばり主演の『伊豆の踊子』とか三波伸介主演の『ダメオヤジ』とか、一連のコント55号シリーズとか、いくらプログラム・ピクチャーだからとは言え、映画の出来云々以前に、企画段階で誰か止めるやついなかったのかって言いたくなるような珍品の数々が目白押しなのだが、これは恐らく、「タレント人気」に乗っかりゃいいんだからと軽い気持ちで(つか何も考えずに)作っていたと思しいのである。
 だからこそ初期作品でたまに光って見える『張込み』とか『拝啓天皇陛下様』とか『五瓣の椿』も、脚本もそんなに上手いわけではないのでやはり役者の力に起因するところが大きいのだろう、と演出家としての野村さんの腕は割り引いて考えてしまいたくなるのである。
 それにしても不思議でならないのは、野村さんは本人の資質的にはおよそ合っているようには見えないミステリー・推理映画に、どうしてあそこまで拘ったのかということだ。全部で88本ある監督作の中から、広義のミステリー・推理映画に当たるものを抜粋してみる。

 1953 鞍馬天狗 青面夜叉(原作 大仏次郎)
 1958 張込み (原作 松本清張) 
 1961 ゼロの焦点 (原作 松本清張) 
 1961 背徳のメス (原作 黒岩重吾) 

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04月08日(金)
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