ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491661hit]

■当人には悲劇、他人には喜劇/『夢幻紳士【幻想篇】』(高橋葉介)
 昨9日、鹿児島市武岡の防空壕跡と見られる洞窟内で、焚き火をした市立武岡中学校2年生の男子生徒4人が一酸化炭素中毒を起こして死亡。
 最初にこのニュースを聞いたときには、あんな狭い空間で焚き火なんかしたらそりゃ窒息だってするだろう、中学生にもなって、その程度の科学知識もなかったのか、と、ご遺族の方には申し訳ないが、またぞろ「学力低下」の四文字がアタマの上に浮かんでしまった。無遠慮でデリカシーのかけらもない感想であるが、そう思っちゃったのは事実なので、人非人との批判は甘んじて受けたい。
 今日になって、4人のうちの2人は、以前もこの洞窟内で火を焚いて遊んでいたことが判明したとか。その時点で別に何も異状がなかったのなら、洞窟とは言っても比較的通気性はよかったのかもしれない。少年たちは恐らくは「前も大丈夫だったから」と「油断」してしまったのだろうが、前だって多少は煙いとか何とか、異状はあっただろうから、これはやはり子供たちの不注意であったと言うしかない。今回は火種にした段ボールなどが充分に燃えなかったせいで、一酸化炭素濃度が急激に高まったということである。気づいたときには煙に巻かれて、身動きできなくなってしまったのだろう。
 亡くなられた4人には気の毒だが、結局これはただの不幸な事故である。昔から「探検ごっこ」に興じる子供はいくらでもいて、それこそ崖から落ちたり川で流されたり猪に襲われたり火に巻かれたり遭難したり神隠しに遭ったり、命を落とした子供たちも決して少なくはなかった。悲しむべきこと、痛ましい事故ではあるが、危険を承知の「探検」である以上、全ては少年たちの自業自得でしかなく、誰かに責を求めることもできない。
 ところがこの「ありふれた事故」が、今朝の新聞では一面のトップを飾っているのである。あたら若い命が失われたことを悼む気持ちが加味されているのかもしれないが、だからと言って、大見出しで報道しなければならない意義が奈辺にあるのか、私にはそれがよく分からない。最初にこのニュースを知ったのは昨日の夜、yahooのニュースで見たのだったが、ネット上での記事は全てベタ記事なので、三面記事程度のものだと思って読み流してしまったくらいなのである。
 新聞が未だに「公器」であるのなら、私の個人的な感覚と世間の常識とがそこまで乖離してしまったということになるのだろうか。それともこの事件にも子供たちが死に至った社会的な道義というものが存在しているのだろうか。購読者の「公憤」を喚起する何かしらの要素があるというのだろうか。想像するにそれは、「子供たちが危険地域に立ち入っていたことに気づかなかった、あるいは気づいていても放置していた親や教師など大人たちの責任」とか、「防空壕跡を埋め立てもせずに放置していた土地管理者の責任」とか、そんなところにあるのかもしれない。けれどいくら「危ないから止めろ」と注意したところで、子供は大人の目を盗んで「冒険」してしまうものだし、子供にとっての危険地帯なんて、その辺にいくらでも転がっているのである。この事件を大々的に報道するのなら、子供が道路へ飛び出して一人車にはねられるたびに一面トップに持ってこなければ、“釣り合いが取れない”のではなかろうか。
 私がどうにも気に入らないのは、実のところ新聞などのメディアは、社会的な義憤とかそういったものにこの事故の報道価値を見ているわけではないのではないか、という点なのである。つまりは、殺人とか強盗とか誘拐とか、まさしくワイドショー的な扇情的事件のひとつとして、もっとハッキリ言ってしまえば、死んだ子供たちの愚かさ加減を笑い者にする感覚が無意識的に報道の背景にあって、面白おかしく報道しているように思えてならないのである。
 いや、確かに子供たちが愚かであるのは事実であるし、親がお茶の間で子供に向かって「あんな馬鹿なことしちゃダメですよ」と戒めるきっかけとして使えるかもしれない。けれどもだからといって被害者をここまで晒し者にするほどの事件なのか? これは、という疑問がどうしても脳裏から排除できないのである。

[5]続きを読む

04月10日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る