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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■お勤め最後の日。内容は特にない/能楽座福岡公演『能狂言』
 最後の出勤、と言ってもたいしてすることがない。
 女の子何人かとお喋りをするが、「せっかくお話できるようになったのに」と残念がられる。でも顔はそんなに寂しそうではない。しげとも知り合いの子なので、何かの折にまた会う約束をする。「しげさんと会うとコケたらはたかれるから怖い」とか言ってたが、確かに何もないところでコケることにかけては、天下一品な子であった。
 同僚何人かと挨拶をして別れるが、玄関を出がけにトンガリさんとすれ違ってしまった。相変わらず目がイッていて不気味である。当然、挨拶はナシであるが、この人ともう関わらなくてすむかと思うと、こんなに心が軽くなることはない。


 大濠公園能楽堂にて、能楽座福岡公演『能狂言』。
 なんかむっちゃストレートなタイトルである。まあわかりやすいっちゃ分かりやすいけどな。演目は、梅若六郎・大槻文蔵による福岡初上演の能『泰山木(たいさんぼく)』、野村万作・萬斎親子による親子による狂言『川上』、梅若六郎・観世榮夫による能『竹』。
 桟敷自由席なので、開演の一時間前に入場する。舞台から間に指定席を挟んでかなり距離があるが、一応、ほぼ真正面の席に座れた。もっとも開演後にのこのこ入ってくるおばさんだの家族連れが多くて、やたら視界を遮られたが。
 歌舞伎も能も好きで、時間と財布に余裕があるならもっとあれこれ見てみたいのだが、1万2万は当たり前なんて料金では、ビンボー人は諦めるよりほかはない。ところが今回の公演は、これだけの一流の演者を集めていながら、わずか二千円(実はツテがあったのでさらに安かった)。どうしてこんなに安く公演できたのか、協賛がやたら入ったおかげなのか、事情はよく分からないのだが、こりゃもう見るっきゃないと何週間も前からウキウキして待っていたのだ。
 お客さんはたいていが能好きの老夫婦、という感じで、中には若い女性や親子連れもいるけれども、普通のカップルなんてのはあまり多くない。隣に座っていた女性二人連れも、ちらちら聞こえてくる話によると、萬斎さんの『間違いの狂言』(シェイクスピアの『間違いの悲劇』の翻案)を見て、興味を持ったものらしい。あれは異端で、今日のは普通の狂言だから、感じがかなり違うと思うんだが、つまんないとか思われやしないかなあと心配になる。他人のこと心配したってしょうがないんだけど、つい、ねえ。
 歌舞伎や能を古臭いもの、あるいは小難しいものだと考えて敬遠しがちな若い人もたくさんいるだろうが(いやもう私と同年輩でもそんなこと言うやつがいて悲しいのだが)、確かに詞章は古文だし謳い方も聞き取りにくかろうとは思うが、演者の仕草でどういう話なのか、見当はつくものである。それにたいていの能公演では詳細な解説や謡曲そのものがパンフレットとして配布されることも多いので、初心者でも鑑賞にたいした苦労は要らない。狂言はさらに解説要らずで、小学校の芸術鑑賞で狂言を見た経験のある人も多いと思う。
 ただ、能を楽しむためには、「微妙な仕草」を注意深く見ることが要求されるので、漫然とテレビを見るのに慣れたような人にとっては面白く感じられないかもしれない。それに、下手な演者がやると退屈なものにしかならない能も多い。「能ってよくわかんない」と仰る方にもお勧めなのは「薪能」(たきぎのう)で、これは篝火の下で夜間に行われる能である。本来はこれが能の普通の上演形式であった。揺らめく火に照らされた能面が、動かないはずなのにさまざまな表情を見せて一種凄絶ですらある。機会があったらぜひ見てみてくださいな。

 で、こんな前置きばかりダラダラ書くから日記が無駄に長くなる(苦笑)。
 『泰山木』はもともと世阿弥の作。現在は金剛流の『泰山府君』としてしか残されていなかったものを、観世流の地謡の形式で復元したもの。散りゆく花の延命の儀式の最中に花を手折った天女を、泰山府君が諌める話。

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03月31日(木)
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