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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■愛知万博開幕/映画『カナリア』
愛知万博(愛・地球博)が、今日から開幕。
でもニュースはと言えば、テレビも新聞も、ライブドアVSフジテレビにソフトバンク・インベストメント(SBI)が参戦した話題とか、サッカー・ワールドカップの日本・イラン戦のほうをメインに報道している印象で、万博関連については今ひとつ影が薄い。
まあ、35年ぶりの万博とは言っても、その間に沖縄海洋博とかつくば科学博とか「ミニ万博」はいくらでもあったわけで、正直な話、地域振興に利用しようってだけが目的の、中身の薄い博覧会には日本人は飽き飽きしてると思うのである(福岡の「よかトピア」とか「北九州博」を知ってる人が全国的にどれだけいるのか)。メインの展示が「冷凍マンモス」と言うのも弱い。大阪万博の「月の石」は「未来」の象徴だったけれども、「マンモス」じゃベクトルは過去に向いちゃってるもの。ロボットたちのダンスも今更そう珍しくもない。何より、今回は大阪万博の「太陽の塔」に匹敵するような象徴的なモニュメントがない。あの塔がもしなかったら、大阪万博の印象は180度違ったものになっていただろう。岡本太郎がいかに偉大であったかと言うのは、見た目は何なんだかよく分からない塔一つが切り取った空間が、万博会場すべての空間の「意味」を支配し、「何かよく分からないがとてつもなくすごいことが行われているのだ」という期待と驚愕とを我々に与えてくれたからだ。そういう「期待と驚愕」が、今回の愛知万博にどれだけあるか。
一つの時代を共有する感覚というものがなければ、たとえ同時代に、同じ国に生き、同じ言葉を話していても、人と人との心は離れる。人間は所詮は主観でしかものを判断理解できないものではあるが、それでも多数の主観に共通項を見出すことができればそれは客観と呼ばれる。簡単に言えば、人がコンサートや芝居やイベントやスポーツの観戦にわざわざ足を運ぶのは、単に対象をナマで見たい、じかに触れたいと考えているからだけではない。そこにいる人々との「空気」の共有、一体感を求めるからである。「あのころはこういう時代だった」と誰もが同じように語れる共通概念がほしいのである。それは本質的に孤独である人間の精神が欲求する本能のようなものだと言っていい。
しかしながら、戦後の“個人主義”の歴史の中で、我々日本人はそのような「共通概念」を徐々に見失っていくことになる。テレビの人気番組の視聴率が40%、50%を記録し、年末の紅白歌合戦に至っては80%を越えるという、「君もあなたも日本人」的な時代は過ぎ去った。せいぜい東京オリンピック、大阪万博の時代くらいまで、すなわち高度経済成長の時代くらいまでが、おおむね日本人が「同じ方向を目指していた」と言える時期ではなかったろうか。
別に、過去を懐かしんでいるわけではない。一度細分化してしまったものを再び統合することなど困難極まりないことだし、またそうする意義もないと思う。個人の意志の意図的な統合は、全体主義を生みかねないからだ。しかし、バラバラになってしまったもの同士が、自らの個人主義を貫き存在意義を尊重すると同様に、他者の価値も理解し許容することができずに、それぞれに屹立しているだけ、という状態はやはり一つの不幸なのではないか。そういう現状だからこそ、「文化による国際交流」を図る万博の存在意義は確実にある、と言いたいのだが。
私は代理戦争としてのスポーツに熱狂している人々を見ながら、その「闘争を無批判に許容する無自覚な態度」に対して常々苛立たしさを覚えている。「スポーツによる国際交流」なんて不可能なことは、各国のサポーターの「敵憎し」の態度を見れば明らかである。しかし、闘争本能をどこかで発散せねばならないのが人間の業であり、勝利による擬似支配もまた、孤独からのやむを得ざる脱却であることは、私も理解しないではないのだ。ただ、それが力道山対シャープ兄弟のプロレス中継を映し出す街頭テレビに人々が群がったころとたいしてかわりばえもしない未成熟な精神に基づく熱情であり、決して誉められた類のものではないこと、本来ニュースとは何をメインに報道すべきものなのか、マスコミがそれを見失ってしまっていることを、認識くらいはしてほしいと思うのである。
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03月25日(金)
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