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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■やっと週末/映画『ネバーランド』ほか
 残業で退社が七時半。
 しげと合流して、ダイヤモンドシティへ映画を見に行く。今年もようやく映画鑑賞が軌道に乗り出したな。
 晩飯は寿司屋で一緒にしたが、そのあとの買い物は別行動。私はいつもの通り「フタバ図書」でマンガの買いこみ。
 しげはキャナルでもダイヤモンドシティでも「チャイハネ」に入り浸っていて、こないだからアクセサリーや服などがどんどん増えている。どうも何かに「目覚め」ちゃったみたいなのだが、いったいどこへ突っ走っていくのか、若干心配ではある。まあ、似合わないブランドものにハマるよりはマシだが。


 映画『ネバーランド』。
 『ピーター・パン』シリーズの作者、ジェームズ・マシュー・バリ。彼が戯曲『ピーター・パン』を生み出すきっかけになったデイヴィズ家との関わりを描いたもので、いわゆる「バックステージもの」ってことになるわけだが、史実に取材してはいても、物語自体はかなり脚色されているらしい。例えば、映画ではバリの戯曲は『ピーター・パン』以外は当たらなかったように描かれているが、そんなことはなくて、『小牧師』『屋敷町通り』『天晴れクライトン』など、どれも大ヒットを飛ばしている。
 原作はアラン・ニー作の戯曲『THE MAN WHO WAS PETER PAN(ピーター・パンだった男)』。残念ながら邦訳されていないので未読。だもんで、映画と内容にどのような違いがあるかは分からない。けれど、バリの人生全てを描くのではなく、あくまでデイヴィズ家との関わりを持った一時期にのみ物語を絞って人物、場所が整理されている点など、いかにも元は戯曲っぽいな、という気はする。けれど、現実と空想が錯綜するシーンなどはもちろん映画でしかできないことで、単なる舞台の引き移しになっていないことは確かである。似たような演出は同じく舞台の映画化である『笑の大学』でも見られたが、『ネバーランド』の方がはるかに洗練されている。彼我の差はやはり監督の才能の違いなんだろう。
 ピータ・パンとウェンディの関係や、ネバーランドについての解釈も、ディズニーアニメのように飛んだり撥ねたりするだけの、ファンタジーの表面的な楽しさだけを追及したものではなく、バリの事故死した兄がいる場所、そしてシルヴィア・デイヴィス夫人が旅だって行く先、すなわち「死後の世界」であることを明確に打ち出している。ピーター・パンが大人になれないのは死んでいるからだ。必然的に生きているウェンディは、ピーターを置いて先に大人になっていく。しかし、現実ではそれが反転し、全く逆の現象が起きている。バリは兄にもシルヴィアにも置いてきぼりを食らわされて、この世に取り残されてしまっているのだ。
 バリ(ジョニー・デップ)が、シルヴィアの母(ジュリー・クリスティ!)に向かって「彼女がいなくなってしまうなんて……」と言って俯いたその表情に、萩尾望都『ポーの一族』のラストでオズワルドが「みんな、みんな、私を置いていった!」と叫んでいたシーンがオーバーラップした。“残されたものの悲しみ”を乗り越えるところから人生は始まる。その悲しみからいつまでも癒されることのなかったバリは、だからこそ「永遠に大人になれないピーター・パン」だったのだ。
 まとまりのいい映画ではあるが、見終わって切ないというよりはやり切れない印象、後味の悪さのようなものも感じてしまうのは、「本を開けば、そこに母さんがいる」とピーターに語るバリの姿を見ても、彼が本心からそれを言っていないことが伝わるからだ。バリとピーターがベンチで寄り添う姿、それもつかの間の幻想に過ぎない。そして、映画を見終わって、観客である我々も、彼等に置いてきぼりを食わされてしまっていることに気付くからなのだ。
 ……で、イアン・ハートが演じるコナン・ドイルがどこかに出てたそうだけれど、いったいどこに?(バリとドイルは協力して合作劇『ジェイン・アニイ』を書いた仲である)


 松井今朝子『大江戸亀奉行日記』。

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01月21日(金)
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