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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■類友な話/ドラマ『富豪刑事』第二回ほか
 職場の同僚で、映画好きの方がいらっしゃるのだが、昨日『カンフーハッスル』を見に行ったのは、この方から「もう笑えて泣けてサイコーですよ!」と勧められていたこともあったのである。でも私が実際に見た感想は「そこそこ」。映画を見た以上は、この方に感想を「報告」するのは義務であろう。けれども、そこで迷ってしまったのは、「いや、それなりでしたよ?」ということを、正直に言うべきかどうかということだった。
 別段、淀川長治を気取っているわけではないが、私は「どんな映画にも誉めるところはある」と思っているので、よっぽどクソつまらない限りはたいていの映画は面白く見られる。『カンフーハッスル』だって、キラ星のごとく輝いているシーンは随所にある。凡百のクソ映画群に比べれば充分「面白かった」と言えるのだ。ただやっぱり全体の作りが雑な点は否めず、シーンとシーンの繋がりがドラマチックな高揚感を味わわせてくれるまでには至っていない。「すっげえ面白かったぜ!」ってのと「まあ、いいんじゃない?」ってのとは、どちらも「面白い」の部類に入りはしても、映画の出来という点ではレベルが全然違うのである。基本的には「つまんない」と思ったものを、「面白い」だなんて、私には口が裂けても言えないことである。
 というわけで融通がきかねえなあと自分でも思いはするのだけれど、正直に「まあまあでしたね」と伝えてみた。もちろん、誉めるところもあるが、ここがこう欠点だと思う、と具体的に指摘したのである。てっきりガックリされはしないかと心配していたのだがさにあらず。その方、「なるほど、わかりますよ」と頷いてくださった。偏狭、尊大、狷介で底の浅い人間にはイヤというほど出会ってきているので、もしそうだったらどうしよう、とビクついていたのは全くの杞憂であったのだ。
 映画の批評が人によって千差万別であるのは、すべての人間に個別の「文化」があるからである。すなわち、自分がどういう立場で、かつどういう視点で映画を見るかということは、その人が生まれ育った風土や習俗、知識や経験、社会的な立場などによって左右されざるを得ない、ということである。ゆえに、厳密に言うなら、人と人とが「感想を完全に共有する」ことは不可能だ。だからこそ、他人の意見が自分のそれと違っていても楽しめるのであるし、また「一人一人の違い」をこそ楽しまねばならないし、自分の好きな作品が貶されたからと言って憤慨激昂するというのは、他人とのコミュニケーションを根本的に否定しているのと何ら変わりがないのである。「角を立てない」ことを人間関係の美徳のように称揚してきたのは「和を以て尊しとなす」の完璧な誤解で、現実にはお互いの内心の憎悪を増大させる効果しかない。人生には、最終的には相手を傷つけ自分も傷つく覚悟の上で「腹を割って」話すしかない場合のほうが圧倒的に多い。たかが映画の感想の話で何を大袈裟な、と言われるかも知れないが、そのたかが映画の話程度のことでキレる単細胞なのかどうか、ということもこちらが正直に話してみないと分からないことなんでね。
 ただまあ、気をよくした下さったのはいいけれど、これから先、その方が映画を見るたびに私に感想を求めて来はしないかなあとちょっと心配になる。私だって全ての映画を網羅して見ているわけではないのだ。……と思っていたら、帰宅して夜、その方からいきなり電話があった。「藤原さん、チャウ・シンチーの『北京より愛をこめて』という映画が深夜テレビであるんですが、これ、面白いですか?」。……だから見たことありませんてば(^_^;)。
 しげから、「アンタってヘンな人ばかり知り合いが増えるね」と言われてしまったが、その筆頭はおまえだ。

 夜、しげのところによしひと嬢から連絡がある。
 実は何ヶ月か前、長らくの苛酷な労働条件と胡散臭い体質に堪えかねて会社に辞表を叩きつけていた彼女であったのだが、このたびメデタク別の会社に再就職が決まったそうだ。今時の不況を思えば転職の決断はなかなか勇気が必要だったろう。よくぞ思い切ったものだと感心したが、その時の態度が「すぱーん」としていて、実に威勢よくって、清々しかったのである。結果的に吉と出たからよかったという見方もできようが、やはり、「女は度胸」だよなあと思う。

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01月20日(木)
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