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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■さようならドラえもん/『ハウルの動く城』
アニメ『ドラえもん』の声優が来春を機に聡入れ替えとか。
主役五人、ということだから、大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太、たてかべ和也の諸氏が全て入れ替わる、ということなのだろう。ずいぶん思いきったことをやろうとしているが、役者さんたちの意向で行われたことではないのではないか。
役者は、一つの役柄が定着することを嫌ってシリーズものから離れる人と、当たり役を得られたことをありがたいと思って大事にしていくタイプの人との両極に分かれる場合が多いが、『ドラえもん』の役者さんたちは、これまでの「死ぬまでやりたい」的な発言から考える限り、後者だと思われるからである。もっとも、大山さんと小原さんはプライベートでは実はすごく仲が悪いというから、対立が決定的になって、やってられなくなったという可能性もなきにしもあらずだが、これは根拠になっている話というのがアテレコのときに大山さんと小原さんの席が端と端に離されているという、なんともあやふやなものなので、所詮はウワサの域を出ないことである。
やはり一番可能性があるのは、テレビ局か製作会社の意向だと思う。彼らの念頭には、『ルパン三世』での山田康雄→栗田貫一、『サザエさん』での高橋和枝→富永みーなといった、“役者の病気、死去による交代”を避けたいということがあったのではなかろうか。声だけの演技である声優の仕事は、顔出しの役者に比べればその「老い」があまり感じられないですむが、それにだって限界はある。10年、20年が過ぎれば、なだらかな変化ではあるが、声の張りはやはり落ちていく。気がついたときには、こりゃいくらなんでも子供の声には聞こえない、という事態に陥ってしまう。ハッキリ言ってしまえば、もう七、八年くらい前から、特に大山さんの声に「張り」が失われていた。別に『ハリスの旋風』の石田国松や『サザエさん』の初代カツオあたりまで遡ってその声を想起しなくても、『ドラえもん』の初期と今とでは、まるで別人のように「衰え」が見え(聞こえ)ているのである。
テレビ朝日やシンエイが、『ドラえもん』を単に「昭和を代表するマンガ・アニメ」として位置付けるのでなく、永久に続けていこう(それこそドラえもんがやってきた23世紀を越えてまで)という覚悟でいるのならば、声優の交代は必須だろう。誰か一人を変えるよりは、全員、というのは賢明な判断であるとすら思える。今思い返せば、ここ数年の主題歌歌手の度重なる変更も、今回の措置の「布石」だったのではないか。
しかし、個人的な感情でものを言うならば、藤子・F・不二雄作品は、その殆どが懐かしい昭和の風景と不可分のものである。『ドラえもん』が愛され続けることは一見、嬉しいことのように見えるかもしれないが、同時に「時代を越えて」愛され続けることがそんなにいいことなんだろうか、という疑念も生じてしまうのである。実際、『ドラえもん』以降の藤子マンガが、それ以前のものと比べると、「昭和の匂い」がかなり希薄になっていることに嘆きを覚える人も多い。これを「ノスタルジア」の一言で片付けてしまう人もいるが、それは少し違うのではないか。
藤子さんのもう一つの代表作、『オバケのQ太郎』が二度まではともかく、三度目のリメイクに堪えられなかった理由は、正太やゴジラ、子供たちの主たる遊び場であった「空地」(「公園」すら身近ではなかった時代なのだ)が、既に現代の子供たちにとっては生活の主体ではなくなってしまっていたという事実も大きいと思われる。それに比べると、『ドラえもん』の場合、たとえ作中に登場してはいても、「空地に土管のある風景」は既に単なる背景以上の意味はなくなってしまっていたので、そういった「昭和の風景」にさほど拘らずにすむ分、まだ「延命」が可能だったと言えよう(『オバQ』にはあった子供グループどうしでの「空地の取り合い」ネタが、『ドラえもん』にはない)。
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11月21日(日)
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