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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■子どもの日は端午の節句ではないのだ。
一日激しくはないがずっと雨降り、ジメジメと鬱陶しい一日。
同僚から何気なく、「こんなに雨が降るのに、6月のことをどうして『水無月(みなづき)』って言うんですか?」と聞かれたので、旧暦と新暦の季節のズレについて説明をする。一昔前は、カレンダーと言えば日めくりの方が一般的で、どこの家でも床の間の柱なんかに柱時計と一緒にこれがかかっていたものだったが、それにはたいてい一緒に「旧暦」も記載されていた。だからそういう「日常」を知っている者にとっては、今の六月は、昔なら四月〜五月にあたること(一月半ほどズレるのである)を常識として知っているのだが、日めくりよりも月めくりカレンダーのほうが一般化した現在では、「旧暦」もすっかりトリビアになってしまっているのであろう。
「だから『水無月』っていうのは、今なら7月から8月にかけてってことになります。夏の真っ盛りですから、確かに『水の無い月』なんですよ。梅雨は逆に5月の雨なんで『五月雨(さみだれ)』になります」
「じゃあ、『皐月晴れ(さつきばれ)』って言うのは? 5月は雨が降ってるんじゃないんですか?」
「梅雨のさなかに、たまに晴れる日があるでしょう。あれを『五月晴れ』って言うんです。だから今の暦で5月に『五月晴れ』っていうのは間違いなんです。同じように、正月も七夕も今の暦で祝うのは季節がズレてしまってるんで、本来なら間違いです」
同僚は「知らないことっていっぱいありますねえ」と感心していたが、この旧暦と新暦の季節のズレ、現在では実際にどの程度の認知度があるんだろうか。どうかすると、若い人だけではなく、50、60代の人ですら知らない(あるいは忘れている)場合もあるのだ。それで特に生活に不自由はないのだから、そんな瑣末な知識は忘れてしまっても無理はないのかもしれないが、季節のズレに鈍感になっているということは日本人から「四季」を味わう感覚も失われてしまっている、ということだ。
正月休み、盆休みの風習はまだ生き残ってはいるが、核家族化が進んでいる現在では、実質上、ただの休みで、特段の「行事」を行うわけでもない。花見は飲み食いの方がメインで(でも、これは昔からそうか)、正月に雑煮を食べたことがない、盆に墓参りなんてしない、という家庭の方が多くなっているのである。
……そう言えばもう、何年、獅子舞を見てないかなあ。商店街が消えて、スーパーとコンビニばかりになれば、そりゃ獅子舞だって各家庭を回ることはなくなるというものである。……あなたは、子供のころ、獅子舞にアタマを噛んでもらったことはありますか?
何だかもう、若い人と話をしていると、同じ日本人だということが信じられなくなってくるし、ここまで自分の「常識」が通じないと、会話をすること自体、怖くなってくることもある。「ハタチ過ぎたらオジサン、オバサン」という感覚は実際その通りで、十代の人間から見れば、40代の人間などは遥か彼方の歴史上の人間になり果ててしまっている。我々40代は中年ではなく老人なのである。「今時の若いやつらは」と言ってるうちはまだ世代の断絶に憤る元気があるが、たいていの老人はヒネクレて寡黙な頑固ジジイと化していくのであろう。30代の諸君、君たちももうすぐそうなるのよ(~_~;)。
今日は幸いなことにトンガリさんには一日合わず。別にアチラが職場に来てなかったわけではなくて、私が会いに行かなかっただけである。私にだって私の本来の仕事があるし、しょっちゅうあのヒトの仕事の代わりばかりしているわけではないのだ。
ああ、でもそれだけで気が楽になるんだから、私のストレスの最大の原因がアレであることは間違いないのである。
冷蔵庫の食料が底をついているので、買い物に行かねばならないのだが、迎えに来るはずのしげがいつまで経ってもやって来ない。電話を入れても音沙汰なし。痺れを切らしてタクシーで帰ると、やっぱりイビキをかいて寝こいていた。
叩き起こして「レッドキャベツ」まで出かけていって買い物。なかなか買い物に行くのも難しくなってきていたので、思い切り買い込む。
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06月24日(木)
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