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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■やっぱり出たよ、トンチンカンさん。
なんだかまた、長崎佐世保同級生殺人事件(こんな言い方がだいたい定着しつつあるようである)の追っかけ日記みたいになりつつあるな。
昨日の日記を読み返してみて、寝る前でウツラウツラしながら書いたせいもあるのだろうが、かなり激烈な書き方をしているのに、自分でも驚く。加害者女子を「鬼」とまで書いているのである。いや、そう書いたことは覚えているのだが、自分の意識の中では、このとき、「あまり激しい書き方はしないで、穏当な表現にとどめとこうかな」と考えて、「鬼」という言葉を選んでいるのである。なんでや(~_~;)。半分アタマが寝ているので、抑制が効かなくなっていたのだろう。
けれど、これはつい、加害者の少女にも“同情してしまいそうになる”自分を戒めようとした意識の反動かとも思われる。実際、十代前半のころの自分を思い出してみれば、この加害者女子ではないが、「こいつ、殺してやりたい」と思っていた相手は、そりゃあ両手じゃ足りないくらいいたものだ。肉体的な特徴をからかわれた、些細な失敗をバカにされた、先生に誉められたのを嫉妬されてイヤガラセをされた、ともかくちょっとでも欠点を見つけたら、そこを責め立てないではいられないのがコドモの残虐性である。生まれつき眼が悪くて、小学校に上がったころには既に牛乳瓶の底のようなウズマキ眼鏡をかけていた私などは、イジメっ子の格好のエジキであった。集団で取り囲まれてボコにされたことも何度かあるし、事故で頭蓋骨を骨折した直後は、アタマを標的に狙われて、殺されかけたこともある。コドモというものは「相手が死ぬことなどは何とも思っていないのだ」ということを実感させられたものである。
そういう仕打ちを受けていれば、「殺される前に殺そう」という意識は自然に生まれる。当時は学校にナイフを持ってくることに対する規制だってなかったから、一歩間違えば、ダークサイドに取りこまれて、誰かを刺すくらいのことはしていたかもしれない。私がそうならなかったのは、親の教育の厳しさのおかげだろう。ともかく、息子に向かって「アンタが何かをすれば、アンタを殺して、自分も死ぬ」と本気で公言していた親である。いじめっ子がいくら腐れた外道であろうが、親を巻き添えにして命を捨てる気にはどうしてもなれなかった。つか、いじめっ子よりも親の方が怖かった(^_^;)。おかげで随分打たれ強くはなりました。
加害者の女子の親が、私の親よりも甘かったのだろう、とは言わない。私が事件を起こさなかったのは、多分に「運」も関連していると思うからである。殺人犯となった彼女と、ならなかった私との距離は、さほど離れてはいない。だから、「悪口を言われた」ことで切れてしまった、という動機について、つい同情してしまいそうにもなるのだが、同時に、「それで切れずに、堪えてきた子供たちだって、世間には腐るほどいるだろう」とも思うのである。ネットの掲示板などを見ても、加害者が年端も行かぬ少女であるにも関わらず、殆ど同情論が見られないのは、「誰だってガマンをしているのに」という思いもあるからだろう。キレる10代を手厚く保護するような、社会的な甘やかしが蔓延している状況に誰もが不満を抱いている中にあっては、殺害の動機となった「悪口」とやらがどんなにひどいものであったとしても、いったん殺人者にまでなってしまった人間に対して同情しようという動きはそうそう現れはすまい。
人間の心の中から「闇」を取り除くことはできない。輝く太陽の下にも必ず悪はあり、降る星のごとく深い慈愛の中にも、ドス黒い憎悪は表裏一体で存在している。あなたは、自分が理性的に「正しい」と判断して行動した行為の中に、本当に一片の悪意も篭ってはいなかった、と断言できるだろうか? また、あなたが誰かに対して向けた非難や腹立ち、たとえそれに相当の根拠があったとしても、そこに歪んだ感情が全く混じってはいなかった、と言えるだろうか? もし言える、と言うのなら、そのこと自体が、あなたが「闇」にとらわれている証拠なのである。だから、本質的なことを言ってしまえば、誰も、人の「悪」を裁くことなどはできない。
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06月04日(金)
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