ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491680hit]
■「義理」もまあ、ありがたいけど。
ここんとこ、鬱陶しいことが続いているが、今日、キャナルシティから劇団四季のミュージカル『ユタと不思議な仲間たち』の招待券が送られてきた。こないだ、抽選に応募したのが当たったのである。四季嫌いのしげだけれども、タダなら文句はあるまい。ずっと前からこの芝居、見たかったんだけれども、なんか機会を逸してたんだよなあ。
もっとも、招待日は決まっていて、それが平日なのである。……まあ有休取って、何とかしよう。でも同僚にはナイショ(~_~;)。
二日経って、眼の具合、特に変化はない。
つまりよくもなっちゃいないが、悪くもなってはいない。右と左と、両方に血管のような首吊り縄がぶら下がっているわけだがら、眼球を動かして(要するに寄り目にして)像を重ねれば、首吊り縄が3Dになって見えるかとも思って試してみた。ところがそうすると、縄と焦点が合わなくなって、縄そのものが見えなくなってしまうのである。
……おお、ということは焦点がズレればこの縄も見えなくなるってことじゃん! ……って、寄り目で生活なんてできゃしないって。
職場でも、私の目の具合を心配して、同僚が次から次へと「いかがですか?」と聞いてくるのだが、なかなか返事が難しい。
心配をかけないように、と「全然大丈夫でした」とウソをつくわけにはいかない。何しろこれでまた病院通いの回数が増えるのである。当然、仕事を同僚に肩代わりしてもらわねばならない回数も増える。それじゃ、「大丈夫じゃないじゃん」ということになってしまうから、やっぱり正確に病状は説明しておかなければならない。そうなればどうしても気遣われてしまうのであるが、心配してもらったからといって、目がよくなるわけでもない。壊れたものは元には戻らないのだ。
同僚にしたところで、具体的にどう気遣えばいいのか分からないのは困ってしまうと思うのだが、私とて「こう気遣ってくれ」と言えるような具体的なものは何もない。しょうがないので、お互いに「大変ですねえ」「いやどうもご迷惑をかけます」と不得要領な会話を交わしている。せいぜい「すみません、時々気づかずにぶつかっちゃうかもしれませんが、インネンつけるつもりはありませんから」とか、ヘタな冗談を飛ばすくらいのことしかできないのだが、これで相手の気持ちが和らぐわけでもない。
同僚が私に対して心配そうな顔をするのは「義理」である。「所詮は他人事」と冷たく突き放すようなモノイイをしたいわけではないが、「同情」の気持ちはあろうが、「愛情」のような強い感情ではないから、心底からの心配ではないことは事実である。ゆえに、「心配し続けなければならない」状況を強いられ続けることは、しょっちゅう顔を付き合わせてなきゃならない同僚にとっては苦痛であるし精神的な負担にしかならない。同僚がみな、しょっちゅう「近ごろ、調子はどうですか?」と尋ねるのは、気候の挨拶よろしく無意識的に投げかけられているけれども、その言葉の裏から、「調子がよければ余計な心配せずにすむのになあ」という感情が見え隠れしている。そういう要らぬ気遣いをさせてしまうことがまた私に溜め息をつかせることになっている。
誤解なきように願いたいが、私は「義理」で心配されることを不快に思っているわけではない。確かに「義理」というのは「人情があるフリ」であるから、誠実ではないという見方もできるけれども、カミサマじゃあるまいし、人間、そんな誰彼なしに博愛主義になれるわけでもない。「人情がある“フリ”だけで済ます」「“フリ”を“真実”として受け入れる」という、日本人の「腹芸の世界」が、ここでも人間関係を成立させる潤滑油として機能しているのである。これは美徳と言っていいものだろう。
[5]続きを読む
05月27日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る