ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491680hit]
■東京の夜は更けて(2)/小鹿番さんの死去と、またまたテンパる妻。
俳優の小鹿番氏が、4月29日、急性腎不全のため死去。享年71。
ついこの間、『放浪記』で菊田一夫を演じていた番さんを見たばかりだった。20年前に見たときにはまだ「作り」の部分があったものが、先日の舞台では実に自然に、菊田一夫本人といった風情を漂わせていて、年を取ってもなお演技が上達していくその素晴らしさに魅せられた。「至芸」とはこういう演技を見て称するべきものなのである。
朝食の席で新聞を読みながら、グータロウくんが、「小鹿番が死んだって聞いて、悲しむのは俺たちの世代が最後だろうなあ」と嘆息する。さて、それも怪しいものだ、と私は更に悲観的になる。いくら全国を回り、上演回数が記録を打ち立てていても、『放浪記』や『ラ・マンチャの男』の舞台を見た人間は、日本人の人口の数%に過ぎまい。「小鹿番」の名前を今回初めて聞いた、という人も多かろう。
悲しいことに、番さんのような浅草出身で舞台を中心に活躍し、テレビにはあまり出ない役者さんの評価というものは“最近では”どうしても低くなる(全く出ていないわけではないのだが、ちょっとしたゲスト、という役が多いので、その真価はわかりにくい)。しかし一度でもその舞台を見れば、「こんな凄い人がいたのか!」と唸ることは間違いないのだ。なのに、テレビしか見ない、という人間が、それがさも当然といった態度で何の興味もなげに「小鹿番? 誰、それ?」なんてほざいているのを見ていると、こめかみの血管が切れそうになる。そんなヤカラには、そもそも役者や演技を批評すること自体、不可能なのだ。シロウトならともかくも、「批評家」と名乗る人間までそんな自分の「不勉強」を恥とも何とも思っていない発言をしばしばしてしまうのは、いったいどういうことなのだろうか。
ナンシー関が、時代観察者としての目は持っていても、ドラマや役者の演技を批評する目をついに持ちえなかったのはそういうことである。おい、世の中のエセヒョーロンカどもよ、喜劇を語りたいんだったら、年間、舞台の100本くらい見とけよ。せめてテレビ中継だけでも。
しげを無理やり『放浪記』に連れて行って見せていてよかったと思う。今後、誰か別の役者さんが菊田一夫役を引き受けたとしても、番さん以上の演技は絶対に望めまい。これまで一度も『放浪記』を見たことがなかった、と仰る方は、人生で最も素晴らしい瞬間の一つを経験する機会を永遠に失ったのである。それくらいの人が亡くなったのだという“事実”くらいは、番さんに興味がない人であっても知っておいてほしいのである。
森光子さんの悲しみはいかばかりだろう。
テレビのニュースで、昨日行なわれたイラク人質事件の今井、郡山両氏の記者会見の中継を見る。のっけから「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べても「ごめんなさい」とか「申し訳ありません」とかの謝罪のコトバはなし。予測された展開ではあるが、要するに「我々は悪くない」の一点張りである。
何が問題とされているか、について、本人も含めて周囲が全くわかっていないなあと呆れかえったのが、「自己責任論」についての郡山氏の次の発言。「ジャーナリストは危険だからこそ現場に立って伝えるものがある。リスクを背負っているのだから、僕らには当てはまらない」。
あの、そのあんたが言うね、「リスクを背負っている」ということが「自己責任」ということなんであってさ、だからみんな、「イラクに行きたきゃどうぞご勝手に」と止める気もないし、「死のうが生きようが勝手じゃん」と突っ放してんだけどねえ。だから誰もあんたの言ってること否定してないよ? 仮に死んで帰ってきてたとしても「自己責任だからしょうがないよ」って、君らの功績認めてあげるよ? あんたらの言ってることって、それを望んでるとしか思えないんだけど、国民の感情と利害は一致してるよねえ? それを家族が「助けて助けて」「自衛隊撤退」と訴えたから「なんでそんなん助けにゃならんの」って話になったんだってば。
その家族は会見場の隅で「ウチの息子たちはなんて素晴らしいのだろう」って顔で見てるし、本人たちの顔はもう完全にイッちゃってるし、こりゃ、既知外はもうどこまでいっても既知外のままだわなあ。
[5]続きを読む
05月01日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る