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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■また誤読する人はいるかもしれないが/『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(口福倶楽部代表ヤマトモ)
 個人批判だと勘違いされても困るので、「某ホームページの某掲示板」と書いておくが、そこを覗いてみたら、なんかちょっと首を傾げたくなるような書きこみを見つけた。
 曰く、「博多の人間は福岡の人間をコバカにしている」。
 他地方の人にはそもそも関心外というか、何のことやら見当もつかないだろうが、福岡市は那珂川を境にして、東を博多、西を福岡と昔から分けて呼んでいる。もともと黒田氏が福岡に城を構えた際に、自国の「福岡」の地名を移殖したのが始まりである。それ以来、博多は商人、職人たちの町人の街となり、福岡は城下町、武士の街となった。廃藩置県後もその気風は受け継がれ、「博多っ子」とか「博多んもん」と矜持を持って言った場合には、福岡の人間は指さないのが普通である。
 あまりくだくだしい説明は避けるが、長い歴史の中で身分によって差別されてきたのは、博多の方なのである。市名を福岡市にするか博多市にするかで投票が行われ、一票差で福岡市と決定し、博多人が涙したことは地元では有名な話である。その代わり、国鉄が開通したときには駅名は博多駅とすることが定められた。区画整理で「博多区」が誕生したときには昔ながらの博多っ子の喜びはいかばかりであったか。これは単に地域の対立という謂いではなく、「差別撤廃」の凱歌であったのである。
 そういう歴史的知識があるなら、博多人が福岡人をコバカにすることなど有り得ないことは容易に想像がつこう。博多人には商人としての、職人としての誇りがあり、それが権力に対する「反骨」という気風をも生んでいるのだが、恐らく書きこみをした人は他地方の人で、博多人の矜持を尊大と勘違いしたものではなかろうか。
 まあ私もそうだが、博多の人間はお偉いさんに媚びる人間は大嫌いである。社会的なオトナの事情で、上の者の命令に従わねばならないこともありはするだろうが、心まで売り渡しているわけではないのだ。以上、「なんで博多の人はあんなに自分の土地に拘りを持ってるのかなあ」という疑問のある方のために説明しました。こういうのいちいち解説するのも博多人にとってはホントのとこ、恥ずかしいんだけどね。


 CSアニマックスで9月1日から『ハイスクール!奇面組』が再放送されてるんだけど、コッソリ録画しているのをしげに見つかってしまった。
 「なんでそんなん録るん!?」と怒ってたけど、しげ、このマンガは好きだったはずなんだがなあ。
 いや、このマンガが原作もアニメも、そんなに面白いものではないということも承知してはいるのである。初期のものは特に、「個性を大事にしよう」とか日教組的スローガンを前面に押し出した長ゼリフがやたら多くて、ギャグマンガじゃないんかいこれは、と、いささか閉口しながら見ていたところがある。
 原作者の新沢基栄さんのそういったリクツっぽさは、ともすれば描かれるギャグそのものを無効化してしまう危うさをも内包していたのだが、にもかかわらず『奇面組』シリーズが今なお命脈を保っていられるのは、やはりあの「名前のダジャレ」に負うところが大きいと思う。上手いものもありはするが、たいていはムリヤリ作ったヒドイ出来のものばかりだ。けれどそこまでのものになると、その酷さにかえって笑ってしまうのである。
 主役の「一堂零」などはシャレとしては珠玉の出来であろう(もっとも、今はなき劇団「青い鳥」の共同ペンネーム「一堂令」のほうが先ではあるが)。でもインパクトの強さでいけば、「冷越豪」のほうが圧倒的にもの凄い。「レッツゴー」のシャレなら、普通は「烈津豪」とかしそうなものだろう、どうせそんな名字あってたまるかと突っ込まれる点では同じなんだから。でも、一瞬何のシャレだかわかんないこのデタラメさ。「これ何のシャレ?」というのが当時はよく話題になっていたものだ。

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09月04日(木)
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