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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■戦慄の3時間/舞台『放浪記』/『新暗行御史』第六巻(尹仁完原作・梁慶一)
 昼からしげと博多座へ、舞台『放浪記』初日を観劇に行く。
 どこかで先に食事をしておこうかと思ったけれど、せっかくだから博多座の弁当を食べることにする。ちょっとお高いんだけれど、幕の内なら品数は多いし、栄養のバランスは悪くないんである。
 けれどしげ、せっかく買ったのにおかずをいくつかつまんでみて「辛い」と言って残してしまう。そりゃ酢のものなんかが苦手ってのはわかるけど、そんなに辛いものばかりではない。エビを残したりしてるのは、単に殻を剥くのが面倒臭いからだ。戦前の人が見たら怒るぞ。殻を剥いてやって差し出したら、案の定パクリと食べた。
 弁当は何種類も売ってたので「他のの方がよかったかなあ」と食べ終わったあとでも物欲しげ。まあ今度は『レ・ミゼラブル』が来るみたいだから、そのときの楽しみにしておいてな。


 林芙美子原作、菊田一夫脚本、三木のり平潤色・演出、本間忠良演出補『放浪記』。
 今回パンフレットを読んで、初めて初演時のもとの脚本が5〜6時間もの大作であったことを知る。それを三木のり平が2時間強にまでカットし、にも関わらずダイジェストに思わせない重厚な舞台を作り上げていたのである。物故した三木さんの名前が未だに掲げられているのは、そのバージョンの再演のため。
 
 芝居を見ていて「戦慄する」ということがある。
 上手いなあ、とか、凄いなあ、というより、「これは人間技か」と言ったような感覚なのだが、特にその人が舞台の上で飛んだり撥ねたりウルトラCの体操技(古いね)を見せるというわけではない。
 ごく自然な、日常のさりげない動きなのだが、実は演技をしているわけでもない普通の人間の日常の仕草の方がぎこちなかったりすることは往々にしてある。「自然な演技」を衒いもなく演じることほど困難なことはないのだ。
 言葉にするのがとても難しいのだが、森光子の演技には、紛れもなく「神」が降りている。
 20年ほど前、昭和58年に、今ほど『放浪記』の公演回数の「記録」が話題になっていなかったころ(森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』のほうが記録更新中であったから)、私は東京芸術座で友人と「まだ七百回ほどしか演じられていない」「演出が、亡くなった菊田一夫から三木のり平に代わって2年しか経っていない」舞台を見ている。
 同じ芝居を何百回何千回も繰り返し演じるというのはもちろん並大抵のことでできることではないのだが、役者がそれに倦むことがないというのは、ほんのちょっとした首の動き、指の仕草、0コンマ1ミリの違いであっても、そこに表現されたものが全く違ってくるからだ。年を取るにつけ、演技に円熟味が増すとはよく言われることだが、役者が見聞きし経験したことは1回1回の舞台に確実に反映されていく。老境に入り、からだの動きが鈍くなっていってもそれは続く。
 客もまた、年を追うごとに見るものが違ってくる。ハタチになったばかりのあのころ、ライバルである親友の原稿を出版社に届けるのを遅らせた林芙美子の行為を、私は彼女の言い訳通り、単なる「過失」だと思っていた。全く、若いってことはバカってことと同義語なんだが、もちろん林芙美子の心理はそんな単純なものではない。晩年に至っても、その親友の怒りが溶けても、それでもなお「過失」だと言い訳をし続ける芙美子の心の壁を、あのころの私には思いやることすらできなかったのだ。
 その壁の向こうにある怨念を、今回少しだけ実感できるようになったというのは、それだけ私もその20年分の自分と他人の怨念に触れてきたということの証左なのだろう。

 小鹿番の菊田一夫も、既にモノマネの域を越えている。最終五幕にしか登場しないが、森光子とのやりとりは、林芙美子と菊田一夫もきっとこういう会話をしたのではないかと錯覚させるほどであった。
 舞台の背景に林芙美子の蔵書として『荷風全集』が置いてあったりするのが芸コマ。二階席だったけれど、オペラグラスを持って行ってたので、そこまで確認できました(^o^)。


 マンガ、尹仁完原作・梁慶一作画『新暗行御史』第六巻(小学館/サンデーGXコミックス・580円)。

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08月29日(金)
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