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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓)
 一昨日の『トリビアの泉』、帰宅が遅くて見逃してたので、ネットでネタだけ紹介してるサイトで確認をする。
 そこまでして見たいのはやっぱり好きなんじゃないかと突っ込まれそうだけど、そこがまた微妙なところで、「ここんとこをもちっとこうすれば面白くなるのになあ」という物足りなさ、隔靴掻痒感が強いからどうしても文句が口をついて出るのだ。とりあえず司会とゲストのツマラン喋りカットして、せめてあと二つくらいはネタを増やそうよ。
 「少年の声変わりの瞬間が録音されたレコードがある」ってのは見逃したのが惜しかった。随分昔に何かの科学番組でこれ流してたの(恐らく『四つの目』あたりではなかろうか)聞いたことはあったんだが、もうしばらくその存在自体忘れてたのだ。
 このネタがまた『へぇの本』にまとめられたとしても、CDをフロクに付けるわけにはいかないだろう(それともDVDで出るか?)。映像は写真で紹介できても、こういう「音モノ」は現物に当たるしかない。とは言え、1968年に発売されたという『変声期』というレコード、実際にそれを聞いてみたいと思っても多分もう売ってない。こういうネタこそ、テレビ向きなんである。
 「午前十時十分の『十分』の読み方は『じゅっぷん』ではなく『じっぷん』である」ってのは記録を見るとたった「12へぇ」であるが、高得点の「へぇ」(『変声期』は90へぇ)とのバランスを取るためにわざわざこんな誰でも知ってるようなネタ(マトモに学校に通ってた子なら小学校の時に先生から注意されてるはずである)を取り上げてるんだろうか。それとも制作スタッフは小学生並の学力もないのであろうか。もしも視聴者に対して「どうせテレビを見てる視聴者なんてこの程度で『へぇ』というに決まってる」なんて侮りがあるとしたらふざけた話である。
 ちなみに「十返舎一九」も読みは「じっぺんしゃいっく」である。高校のときに「じゅっぺんしゃ」とフリガナ打ってペケをもらった記憶のある方は多かろう。もっともこの間違いは圧倒的に多いんで、国語審議会もいい加減「じゅっ」の読みも現代語に関する限りは(古語や人名に関しては別)認めたらどうかと思うんだが。少なくともパソコンはもう「じゅっぷん」でも「じっぷん」でも変換してくれるぞ。

 さてこの『トリビアの泉』についてだが、西日本新聞に連載されている宮原哲氏(西南学院大教授)の『コミュニケーション哲学』77回に、次のような解説が載っている。
 本文は長いので要約すると、「現代は情報化社会である。溢れ出る情報に晒されて、我々は心の健康を害することもある。そうならないために仕入れた情報を他人に発信して新陳代謝を図らねばならない。しかしその情報を思いこみで解釈したまま発信してしまうと、他人を傷つけかねない。この番組に投稿された情報は、『へぇ』のボタンで評価されるが、その数が少なければそれだけ無駄な知識なのである。みんなで『へぇ』と言いあってコミュニケーションを図り、その平均値をつかむことが一人よがりの情報発信を少なくすることになるのだ」
 なんだかこの論法だと、「へぇ」のポイントが高い情報は「ムダ知識ではない」とでも言いたげだが、ポイント高かろうが低かろうが、ムダはムダではないのかね。どっちかと言うと、ポイントが高いほうがムダ度が高いと感じる人の方が多いんじゃなかろうか。
 宮原氏が、「もともとムダ知識なんだけど、コミュニケーションの道具として使える点ではムダではない」という意味で語っているとしても、じゃあ例えば「へぇ」度の低い「『十分』の読み」はコミュニケーションに役立たないムダ知識かというとそうではなくて、これ単に正しい読みを知ってるべきな基礎知識だから「へぇ」度が低いだけなんである。「消耗」は本当は「しょうこう」と読むとか「憧憬」は本当は「しょうけい」と読むとか、こんなのは知らない人が多くても、トリビアのネタにはならない。ムダ知識だけど、「使いようによっては」会話が楽しくなるとか、その方法を見せてこそコミュニケーションの道具となりえるのだ。 
 「クラーク博士って知ってる?」
 「知らなーい」
 「……『青年よ、大志を抱け』って言った人だけどね」
 「ふーん。で?」
 「その人、詐欺で訴えられたことあるんだよ」

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07月25日(金)
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